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因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

『ムサシ』ロンドン・NYバージョン

2013-10-09 | 舞台

*井上ひさし作 蜷川幸雄演出 こまつ座&ホリプロ公演 ホリプロの公式サイトはこちら 彩の国さいたま芸術劇場大ホール 10月20日まで その後、梅田芸術劇場シアター・ドラマシティ、シンガポール公演あり1,2,3,4,5,6,7,8,9,10,11,12,13,14,15,16,17)。
 2009年春に初演され、2010年夏にロンドン・NYバージョンとして再演、海外公演も行われた舞台が、新しいキャストを迎えて3度めの再演となった。近年蜷川幸雄は井上ひさしの作品を多く演出しているが、新作書き下ろしはこの『ムサシ』が最初で最後になったというから何やら遺言めいており、俳優やスタッフも感慨ひとしおであろう。筆者は今回が初観劇である。

 舞台は巌流島の決闘で小次郎が武蔵に倒されたところからはじまる。武蔵は小次郎にとどめを刺さなかった。わずかに息があるのをたしかめ、「手当さえよければ・・・」とつぶやき、立ち合いの細川家の人々に医者はいないかと叫んで走り去る。
 それから6年の歳月が流れ、一命を取りとめた小次郎が、今度こそ武蔵を倒さんと再び決闘を申し入れる。寺開きしたばかりの鎌倉の禅寺で、世に並ぶもののない二大剣客と、彼らの決闘をやめさせようとする人々の攻防がはじまった。

 武蔵役の藤原竜也はじめ、柳生宗矩の吉田鋼太郎、木屋まいの白石加代子、筆屋乙女の鈴木杏などは初演から、沢庵和尚の六平直は前回の再演から(初演は辻萬長)で、実力派ぞろい、まさに盤石の布陣である。小次郎は小栗旬、勝地涼を経て、今回は溝端淳平が担うことになった。時代劇も蜷川演出もはじめてというからたいへんな重圧だったと想像するが、パンフレット記載のインタヴューによれば、蜷川はじめ藤原竜也、吉田鋼太郎、白石加代子までが「みんなの尊敬に値するくらい、真摯に、必死で食らいついて来てくれる」、「稽古初日であれだけ台詞も入れて準備万端で臨んできた」と、口を極めて溝端の取り組みの姿勢、がんばりを称賛しているも道理、いっしょうけんめいな姿勢が清々しい小次郎であった。

 2003年に放送されたNHK大河ドラマ『武蔵』は欠かさずにみてはいたが、自分の感覚にある歴史ドラマと何かが違うという感覚がつねにあった。それはドラマが宮本武蔵というひとりの剣豪の人生に集中しており、歴史的な人物や事件とのかかわりが薄いことが理由ではないかと考える。
 剣の道を究めたいという男がいる。彼が誰と闘い、どのように勝ったかがテーマである。お通や又八はじめ、濃厚にかかわった人々は何人もいる。しかし結局のところ彼の武者修行が歴史的にどのようなものであり、現代に生きるわたしたちにどうかかわっているのかということまではつかみ取ることができなかった。
 剣の道。それは強くなること、負けないことである。それだけである。相手への憎しみや恨みのために倒したいのではなく、剣の腕前を上げるために闘うのであり、相手が死ぬか、自分が死ぬかというまことにはっきりした結果がでる。

 佐々木小次郎が武蔵を倒そうと6年もつけ狙うというのは、「自分を負かした相手を、今度こそ打ち倒したい」という実に個人的で狭い欲求であり、それはたとえば親を無惨に殺された子の恨みや、戦争でわが子を失った親の悲しみなどとは方向性や温度が違うのではないか。

 人が人を恨み、殺したいほど憎む理由はあまたあり、容易にカテゴライズできるものではないが、自分や自分の肉親はじめ大切な人を傷つけた相手への憎悪ほど厄介なものはないだろう。

 もう何年も前になるが、ある新聞に掲載された在日韓国人である母親をあざ笑った級友や、差別的な仕打ちをした母の仕事場の人を激しく憎む少女からの投書が忘れられない。少女は大切な母親を愚弄した相手を殺してやろうと思いつめ、それでも姉に止められてあきらめたという。
 また自分がここ数年のめり込んでいるマキタカズオミによる数々の舞台には1,2,3,4,5,6,7,8,9,10、それこそ憎むことによってのみ生かされているかのような人々による壮絶な様相が描かれている。昨年はじめて観劇した東京タンバリン公演『鉄の纏足』で は、ささいなことでいらつき、小さな意地悪やいじめがくりかえされ、「憎悪」などという文学的、芸術的表現にもならないこのどうしようもない様相をこれで もかとみせつけられ、演劇にもなりそうもないものですら演劇になってしまっている現実に、絶望的な心持ちになるのである。
 このような燃えたぎる憎悪に比べると、小次郎の執念はいささかひとりよがりであり、幼稚である。それは相手の武蔵も同様だ。意地を張りあう男の子たちは、可愛くすら思えるのだ。

 ここに『ムサシ』に対する自分のつまづきがある。憎しみの連鎖を断ち切りたい。憎しみからは何も生まれない。それを作者が武蔵と小次郎の再度の決闘に託して劇化したことはわかる。彼らが決闘を思いとどまり、互いを友人と認識して旅に出ることで、無駄死にをした多くの魂が救われる終幕は胸をうつ。しかしこの舞台は前述の少女の傷ついた心を救うだろうか。

 日本の演劇界の巨匠が書き、世界的な演出家が手掛け、若手、中堅、ベテランが顔をそろえて、熟練のスタッフが心をこめて、まさに総力を結集してつくりあげられた『ムサシ』。素晴しい舞台であることはまちがいない。ものたりないなどと言ったら何が飛んでくるか(笑)。しかしそれでもなお救われない憎しみがあり、苦しむことが生きることにならざるを得ない人間がいる。演劇が何を、どこまでできるのか。

 終幕からカーテンコールで舞台に流れたパイプオルガンの荘厳な音楽は、じゅうぶんに生き抜くことのできなかった悔いを抱える死者への鎮魂歌であると同時に、みずからの命の尊さにまだ気づかないこの世の生者、最後まで生き抜こうとする生者への賛歌であろう。

 劇場を出て夕暮れの道を歩く。駅に近づいたあたりで、不意に「ねえ『ムサシ』みてきたの?」と話しかけられた。年輩でお化粧の濃い、まったく面識のない女性からである。はい、みました。どうだった?よかったですよ。よかった?うわあ、わたしこれから夜のをみるのよ。それじゃあねえと嬉しそうに歩いてゆかれた。茫然としつつ、ほんとうを言えばただよかったのではない。いや、でも『ムサシ』はすてきな舞台だったんだ、それが顔に出ていたからさっきのおばさまは自分に声をかけたんだろう、などとさまざまなことが頭や心にあふれそうに湧いてきた。

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