*鈴木アツト作・演出 公式サイトはこちら 吉祥寺シアター 19日まで (1,2,3,4 5,6,7,8)
梅雨が明けたとたんに息苦しいほどの猛暑となった。駅前の雑踏を抜けて数分、吉祥寺シアターに近づくと空気が少し落ち着く。舞台の天井からはきれいな形に組み合わされた赤糸の下に半透明の白っぽいテープが下がっている。正面には白地にパステルカラーの模様が描かれた美しい布が掛けられ、両脇には、あれはどんな素材なのだろうか。睡蓮のような花が置かれている。主舞台には椅子が2脚。これまでみた劇団印象の舞台は、リアルな生活空間が基本にあって、それにファンタジックな仕掛けが施されていることが多かったが、今回は当日リーフレット掲載の鈴木アツトの挨拶文からも舞台装置からも、どんな物語がはじまるのかまったく予想がつかない。「時間」について、「育つ」ことや「老いる」ことについての話らしい…。
手を触れて確かめてみることはできないが、舞台美術(西宮紀子)、衣装(浦上智)ともに風合いや質感、手触りが伝わってくるように優しく温かい。
小柄な女優(龍田知美)が登場し、続いて2人の男優が大きな布の両端をもって大きく動かす。これは波か風か。と女優は両腕を力いっぱい動かして鳥の羽ばたきのように動き始めた。彼女は鳥なのか、少なくとも普通の人間ではなさそうだ。舞い降りると上手の花のところにゆき、その下に手を差し入れて動かす。そこに水の流れがあることがわかる。次に背負っていた包みをあけ、中身を流れに放つ。何かを弔っている、葬りの儀式なのか。タイトル『霞葬』の「葬」の文字の意味はここにあるのか。
今回登場するのは1人を除いて皆人間ではない。星を生んだり雨を降らせたり、天空を司る神々のようである。ただ1人の人間は、石長(いわなが/冒頭登場した龍田知美演じる)が弔いをした場所に捨てられた赤ん坊ミカ(べク・ソヌ)である。天空に人間を住まわせることは禁じられているとわかっていたが、泣きだした赤ん坊を手元に置きたくなって、石長は赤ん坊を連れてもどる。
SF仕立てと括るには神々はとても人間くさく、多少のぎくしゃくはあるがミカを懸命に育てる様子は微笑ましい。しかしひょんなことから捨て子を拾ってしまった女性の奮闘物語に見立てると、今度は映画やドラマでみたことのある設定になってしまう。近未来を描いたSFではなく、自分たちが暮らしている現実の時空間からみえないところでひっそりと紡がれてゆく物語という印象をもった。
神々は不老不死である。休息のために眠ることもない。その一方で、天空に存在を許されたミカはどんどん育つ。泣いて笑ってよく眠り、歩き始め、ことばを話し出す。石長をママと呼び、今すぐパパに会いたいと我がままを言ったり、こんな仕事がしたいと自己主張したり、周囲の手を焼かせる。天空のときの流れは悠久であろうが、人間のミカには命の終わる日が来る。「天寿」ということばを改めて考えてみる。文字とおり天から授かった寿命なのだ。
奇想天外な設定の場合、どこまで凝った作りであるかが小ネタのようにまぶされて、それはそれで楽しいし笑えるのだが、設定の奇抜であることに気を取られて、なぜこのような設定にしたのか、そこに込められた劇作家の思いはどこにあるのかがみえなくなることがある。笑える場面もあったけれども、客席もどっと笑いが沸く雰囲気ではなく、自分も声に出して笑えなかった。観劇最中は、残念ながらこの日が満席の盛況でなく、客席がじゅうぶんに温まっていないせいかと考えた。しかし少し時間が経つと、それは笑うよりも劇作家の思い、それを体現しようとする俳優の思いを確かに受け取りたいという客席の控え目な意思表示だったのではないかと思われた。
『父産』(1,2,7)に描いた子どもをもって親になる不安と希望、また『匂衣』(8)おける出会ったものたちの交わりの瑞々しい幸せと冷厳な別れが、「引きずる」ということではなく、新しい形で示されていると感じる。前作『匂衣』で大きな一歩を踏み出した鈴木アツトが、また新しい飛躍をみせた。
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