メドレー日記 Ⅱ

by 笠羽晴夫 映画、音楽、美術、本などの個人メドレーです

ヘンデル 「アグリッピーナ」

2021-05-08 09:47:06 | 音楽一般
ヘンデル:歌劇「アグリッピーナ」
指揮:ハリー・ビケット、演出:デイヴィッド・マクヴィカー
ジョイス・ディドナート(アグリッピーナ)、ケイト・リンジー(ネローネ)、ブレンダ・レイ(ポッペア)、イェスティーン・デイヴィーズ(オットーネ)、マシュー・ローズ(クラウディオ)
2020年2月29日 ニューヨーク・メトロポリタン  2021年5月 WOWOW
 
ヘンデル(1685-1759)が1709年に発表したオペラ・セリア、ヘンデル24歳であるから、この作曲家イメージゆより早熟のようである。
 
ローマ時代、皇帝クラウディオが外地で死んだとの報があり、後継者を誰にするかということになるが、忠実な部下オットーネをという声に対し、皇后アグリッピーナは連れ子のネローネ(ネロ)をと企む。ところがクラウディオは死んでおらず、さてと構図はこじれてきて、オットーネと相思相愛のポッペアも加わり、なんとも混乱した話が進行する。
 
この登場人物だと、最後は悲劇的と想像するのだが、幕間で誰かが語っていたように、実は喜劇であって、みな色と権力のはざまで葛藤を繰り広げる、その強さと可笑しさ、それを盛り上げる音楽がこの作品の見どころ、聴きどころであり、特にライヴで映えるものとなっている。
 
演出は、古代の人たちが現代の霊廟に現れて、というしつらえになっていて、衣装、ダンス、男女のからみなど、時代を超えてなんでもありの中、マクヴィカーさすがに楽しませてくれる。
 
舞台によく現れる長く細い階段、これを上り下りするのは歌手も大変だが、それと大きな赤いマリリン・モンローを想像させる唇、もちろん権力と色欲、わかっていても効果的である。
 
歌手陣は、ディドナートを中心によくまとまり、からみ、バランスがとれているといったらいいか。ディドナートは少し久しぶりだからか、これまでのすっきりしたイメージより豊満な感じが出ていてピタリだし、ポッペアのレイも風貌はそれに負けない。オットーネはカウンターテナーのデイヴィーズ(名手らしい)で、ポッペアに対して体躯が小さいのは別として、ここにこの声というのは全体の中でいいアクセントになっている。この時代はこういう役割・編成が多かったのだろうか。
 
クラウディオのローズは巨体とだまされそうな感じがユーモラス。そしてここで一番の話題性、となったのはケイト・リンジーのネローネで、変な性格の、まだ子供だがワルという子を演技たっぷり、しかし歌は見事に演じ切る。
 
実は以前からファンで、ケルビーノ、「ホフマン物語」のニクラウスなどで注目していた。ズボン役といっても、他の;歌手のように衣装の下は女性という感じがなく、現在他に変わる人がいない感じである。
 
ヘンデルの音楽は他の同じような繰り返しでしつこく続くオーケストラは他のオペラと同様だが、歌を支えるチェンバロなどの部分はより表現力があると感じた。
歌が筋の進行にくらべ長々と繰り返して続くのは、当時の聴衆の楽しみに沿ったものだったのだろう。
 
指揮のビケットは飽きさせない進行、酒場を想定した場面では舞台上でチェンバロ(即興?);色っぽいダンスを盛り上げていた。
初めて観たものだが、こういう発見は楽しい。

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ハワーズ・エンド

2021-05-04 13:59:58 | 映画
ハワーズ・エンド( Howards End、1992英・日、143分)
監督:ジェームズ・アイヴォリー、原作:E・M・フォースター
エマ・トンプソン(マーガレット)、ヘレナ・ボナム=カーター(ヘレン)、アンソニー・ホプキンス(ヘンリー)、ヴァネッサ・レッドグレーヴ(ルース)、サムエル・ウェスト(レナード・バスト)
 
20世紀初頭のイギリス、ロンドンでドイツに縁のあるらしい知的なシュレーゲル家、未婚の長女マーガレットと次女ヘレン、慎重とちょっと大胆、いかにも絵にかいたような姉妹が、近くに来たウィルコックス家、実業家ヘンリーが率いる現実的な一家であるが、ここと縁が出来てつきあいが始まる。
 
ヘンリーの母ルースはマーガレットと気が通じるようになり、領地の一部ハワーズ・エンドを譲ると言い出すが死んでしまう。遺族はその意志を無視しようとするが、寡のヘンリーはマーガレットと結婚しようということになる。
 
その後、ヘンリーの弟たち、ヘレンと職探しに苦労するバスト夫婦との9つながり、ヘンリーの触れられたくない過去など、さまざまに絡み合うが、その展開で、ハワーズ・エンドの地と家が意味を持ってくる。
 
登場人物たちのやりとり、細かいことでもいい加減にせず、日本人から見ると他人に厳しい、その一方で徹底的に問い詰めることは少なく、そのあとに寛容というか、そういうところを用意している、というように見える。原作者フォースターの意図するところなのだろうか。でもそうならないことが結末の一撃になるが、そのあとには救いも用意されている。
 
俳優たちはイギリス映画豊作の時代の名優たちであり、じっくり見る楽しみがある。エマ・トンプソンはこれでオスカーをとった。でも彼女にとって、もう少しいい作品・演技もあったと思うが。
同じアイヴォリーの「眺めのいい部屋」以来私が好きなヘレナ・ボナム=カーターはここでも格別である。
 
そしてこの映画では、やはり自然、木々、花々、室内の調度、装飾が観る楽しみとストーリーを支えるものとなっている。イギリスの田舎の自然、たしかにフランスの庭と反対でいかにも設計され作られたものではないのだが、それでもそのままというわけではない。
それともうこの時代かなり普及している列車、自動車、これらもなかなかいい風景、道具となっている。

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