お寺さんぽ Ver.03

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追捕転じて海賊となった純友さま (海賊大将・藤原純友)2

2009年03月12日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
さて、首塚だの呪いだのと、同時代ではブイブイと言わせている有名人「平将門」さま。
そんな彼と比べ、やや地味なのが今回の主役である「藤原純友(ふじわらの・すみとも)」さまでした。
”名前は知っていてもイマイチ何をしたのかよくわかんない人”ということで、ちゃんと調べてみることとしたのです。


平安時代中期。
坂東にて「平将門」が暴れまわっていたのと同じ頃。
まるでその動きに呼応したように、瀬戸内海の海賊らを率いて朝廷を震撼させたのが、「藤原純友」だったのです。
彼は藤原北家の流れを汲む、筑前守太宰少弐「藤原良範」の子でした。


前述しましたが、承平年間(931~938)は海賊が横行し、瀬戸内海の各地では悩みのタネでした。
彼らを追捕する役目である、「伊予掾(いよのじょう)」だった純友。

ここて海賊勢を討伐・服属させていった純友は無事に任期を務めあげ、そのまま伊予へ土着しました。
「伊予掾」を務めたことによって瀬戸内海とは深い繋がりができ、多くの配下を従えるようになっていたのです。

地方には同族の争いに敗れたなどの理由によって落ちぶれた貴族も多く、これまで当たり前のように支配してきた朝廷に対する不満が募っていました。
純友が従えた名はなくとも実ある海賊らも、そうした者たちであったと想像されています。

承平五年(935)
この頃から、東国で暴れまわっていたという「平将門」
それから一年ほど遅れて、承平六年(936)
純友は突如として、海賊首領のような行動に転じたのでした
ここはひでるさんの想像になりますが、討伐する海賊、配下となる者、どちらにも理由があった筈です。
反乱側に加わる者、その討伐にて名を上げようとした者。
戦い、あるいは会話をするうち、朝廷に対する不満を共に募らせていったのかもしれません。

伊予国は九州に近く、瀬戸内海では重要拠点でした。
宇和島沖の豊後水道に浮かぶ天然の良港をもった離島、伊予「日振島(ひぶりしま)」
この日振島を最大の拠点とした「藤原純友」はいつしか“千艘ほどの船を持つ一大勢力”となっており、各地へ進出して海賊行為をするようになっていました。
これには弟「藤原純乗(ふじわらの・すみのり)」も参加しており、周囲の海域をさんざんに荒らすなど猛威を振るったのです。
ミイラ取りがミイラ、という訳ですね(笑)

⇒ つづく。
  次回は「朝廷を震撼させた純友さま」(3/4)

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※海賊ということで、こんなんを。
 当然ですが、「純友さま」はのってません。