![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/25/9c/b7f9c8d8d9792e1ef2e2326242f5ff87.jpg)
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は…たぶんまだやっていなかったと思うので、名勝地としても名高い「大覚寺」についてです。
正式名称「旧嵯峨御所 大覚寺門跡」、は真言宗大覚寺派の総本山なのでした。
こちらも総本山シリーズですね。
近畿三十六不動尊霊場の第十三番札所であるほか、心経写経の根本道場、はたまた”いけばな嵯峨御流”の総司所でもあるのでした。
さすがに歴史あるお寺、しかも門跡寺院(※天皇・皇族が住職となった寺)は違いますねー。
時は平安時代。
即位した「嵯峨天皇(さが・てんのう)」は后との新居として、「嵯峨院」を建立しました。
これが「離宮嵯峨院」で、簡単に分かりやすく言うと…奥さんとラブラブするための別荘ですかね。おおまかに。
”嵯峨”という地名も、長安の景勝地である嵯峨山から拝借したものなのでした。
こちらの「嵯峨天皇」は新しもの好きなのか唐の最先端な知識を持った「弘法大師」こと「空海」を信任し、高野山や東寺を与えております。
こちらの「離宮嵯峨院」にも五大明王を安置するお堂を建立するなど、何度も「空海」が立ち寄っていたようです。
(※当時の飢饉に際し、「嵯峨天皇」が写経された般若心経が現存している)
【 特別おまけ:略系図 】
桓武天皇(※平安京を造営)
↓
平城天皇--★嵯峨天皇--------淳和天皇===★正子内親王
↓ ↓
仁明天皇-★正子内親王 ★恒寂(恒貞親王)
↓
文徳天皇-光孝天皇
↓
清和天皇(※清和源氏)
貞観十八年(876)
その後、「嵯峨天皇」の皇女「正子内親王(淳和天皇皇后)」が「清和天皇」に上奏して、こちらの一部を「大覚寺」と改め、自らの子(※「嵯峨天皇」のお孫さん)である「恒寂法親王(ごうじゃく・ほっしんのう)」を初代の住職としたのでした。
いわゆる”門跡寺院”ということで保護され、お寺としては安泰であったようなのです。
しかし、武士が台頭する鎌倉時代頃には一時衰退してしまいますが、出家後の「亀山天皇」が住んだことで再興。
いわゆる「大覚寺統」とは、この地にて院政を行っていたことに由来しております。
南北朝時代には南朝の御所となって「嵯峨御所」とも呼ばれ、「後宇多天皇」の皇統が入って伽藍の整備などを行ったのでした。
元中九年(1392)には、こちらで長きに渡った南北朝の争いに終止符を打つ講和会議も開かれています。
そうした訳で、この時代頃にも広大な伽藍が造られるなど繁栄していたようですが、残念ながら後の火災によって焼失。
また、例によって(笑)戦国時代の「応仁の乱」がほとんどのお堂を焼失させたのでした。
やめてほしいですねー。
これで大いに衰退したものの、江戸時代初期頃になって復興。
現存する建物のほとんどは江戸時代の再建というのは、こんな歴史があったためなんです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/72/83/6a55d3efaac4858a8baac15db60a6070.jpg)
境内の東にある「大沢池」は周囲一キロという日本最古の庭苑池(ていえんち:池泉を主体とした庭園…みたいな意味でいい筈。たぶん)
中国にある「洞庭湖(とうていこ)」を模して造られたもので、国指定の名勝地なのでした。
仏像好きな方は、本尊である「五大明王」が必見です。
こちらは平安時代作で、それぞれ重文なのですよ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/kaeru_night.gif)
[住所]
旧嵯峨御所 大覚寺門跡 京都市右京区嵯峨大沢町4
[関連記事] 【明王のいろいろ、ほか】
⇒ 仏像の種類 (お父さんのための仏像講座) [前編] [後編]
⇒ 五大明王 (お父さんのための仏像講座)
⇒ 不動明王 (由来 容貌 信仰)
⇒ 不動明王坐像 (東京・金剛寺)
⇒ 降三世明王
⇒ 大威徳明王
⇒ 金剛夜叉明王
⇒ 軍荼利明王
⇒ 太元帥明王 (前編 後編)
⇒ 孔雀明王
⇒ 愛染明王
⇒ 烏枢沙摩明王
⇒ 四天王編 (お父さんのための仏像講座)
⇒ 室町時代(歴史さんぽ)
⇒ 続・室町時代 中央政治編
⇒ 続・室町時代 地方政治編
⇒ 関東公方と関東管領 (歴史さんぽ)
⇒ 南北朝時代の若き英雄 「北畠顕家」(1 2 3 4 5)
⇒ 父の背中を追う英雄 「楠木正行」(前編 中編 後編
⇒ 史上最悪の市街戦「応仁の乱」[1 2 3 4 5 6]
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※南北朝も勉強中なひでるです。
何か良い本あったら教えて下さい。
本日は…たぶんまだやっていなかったと思うので、名勝地としても名高い「大覚寺」についてです。
正式名称「旧嵯峨御所 大覚寺門跡」、は真言宗大覚寺派の総本山なのでした。
こちらも総本山シリーズですね。
近畿三十六不動尊霊場の第十三番札所であるほか、心経写経の根本道場、はたまた”いけばな嵯峨御流”の総司所でもあるのでした。
さすがに歴史あるお寺、しかも門跡寺院(※天皇・皇族が住職となった寺)は違いますねー。
時は平安時代。
即位した「嵯峨天皇(さが・てんのう)」は后との新居として、「嵯峨院」を建立しました。
これが「離宮嵯峨院」で、簡単に分かりやすく言うと…奥さんとラブラブするための別荘ですかね。おおまかに。
”嵯峨”という地名も、長安の景勝地である嵯峨山から拝借したものなのでした。
こちらの「嵯峨天皇」は新しもの好きなのか唐の最先端な知識を持った「弘法大師」こと「空海」を信任し、高野山や東寺を与えております。
こちらの「離宮嵯峨院」にも五大明王を安置するお堂を建立するなど、何度も「空海」が立ち寄っていたようです。
(※当時の飢饉に際し、「嵯峨天皇」が写経された般若心経が現存している)
【 特別おまけ:略系図 】
桓武天皇(※平安京を造営)
↓
平城天皇--★嵯峨天皇--------淳和天皇===★正子内親王
↓ ↓
仁明天皇-★正子内親王 ★恒寂(恒貞親王)
↓
文徳天皇-光孝天皇
↓
清和天皇(※清和源氏)
貞観十八年(876)
その後、「嵯峨天皇」の皇女「正子内親王(淳和天皇皇后)」が「清和天皇」に上奏して、こちらの一部を「大覚寺」と改め、自らの子(※「嵯峨天皇」のお孫さん)である「恒寂法親王(ごうじゃく・ほっしんのう)」を初代の住職としたのでした。
いわゆる”門跡寺院”ということで保護され、お寺としては安泰であったようなのです。
しかし、武士が台頭する鎌倉時代頃には一時衰退してしまいますが、出家後の「亀山天皇」が住んだことで再興。
いわゆる「大覚寺統」とは、この地にて院政を行っていたことに由来しております。
南北朝時代には南朝の御所となって「嵯峨御所」とも呼ばれ、「後宇多天皇」の皇統が入って伽藍の整備などを行ったのでした。
元中九年(1392)には、こちらで長きに渡った南北朝の争いに終止符を打つ講和会議も開かれています。
そうした訳で、この時代頃にも広大な伽藍が造られるなど繁栄していたようですが、残念ながら後の火災によって焼失。
また、例によって(笑)戦国時代の「応仁の乱」がほとんどのお堂を焼失させたのでした。
やめてほしいですねー。
これで大いに衰退したものの、江戸時代初期頃になって復興。
現存する建物のほとんどは江戸時代の再建というのは、こんな歴史があったためなんです。
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境内の東にある「大沢池」は周囲一キロという日本最古の庭苑池(ていえんち:池泉を主体とした庭園…みたいな意味でいい筈。たぶん)
中国にある「洞庭湖(とうていこ)」を模して造られたもので、国指定の名勝地なのでした。
仏像好きな方は、本尊である「五大明王」が必見です。
こちらは平安時代作で、それぞれ重文なのですよ。
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[住所]
旧嵯峨御所 大覚寺門跡 京都市右京区嵯峨大沢町4
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⇒ 五大明王 (お父さんのための仏像講座)
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⇒ 不動明王坐像 (東京・金剛寺)
⇒ 降三世明王
⇒ 大威徳明王
⇒ 金剛夜叉明王
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⇒ 太元帥明王 (前編 後編)
⇒ 孔雀明王
⇒ 愛染明王
⇒ 烏枢沙摩明王
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⇒ 室町時代(歴史さんぽ)
⇒ 続・室町時代 中央政治編
⇒ 続・室町時代 地方政治編
⇒ 関東公方と関東管領 (歴史さんぽ)
⇒ 南北朝時代の若き英雄 「北畠顕家」(1 2 3 4 5)
⇒ 父の背中を追う英雄 「楠木正行」(前編 中編 後編
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※南北朝も勉強中なひでるです。
何か良い本あったら教えて下さい。