goo

From Hotham, Introduction to the Tevtonick Philosophie

チャールズ・ホサム
『ドイツ哲学入門:魂の起源についての最終結論』より

この世でもっとも難しいのはわたしたち自身について
知ることである。精神の本質はあまりに微細で
とらえどころがなく、見ることもふれることも
解剖することもできない。だから哲学者も神学者も
暗闇のなかで議論をし、この世に疑問を撒き散らす
のみである。人の不死なる魂がどこから来るのか、
それがどのように死すべき肉体と結合するのか、
結局誰にもわかっていない。……

耄碌した古代人たちの考えすべてをここでひとつひとつ
あげたりはしない。それらは現代のわたしたちから
すれば、食べすぎで生じる濁った毒気がもたらす
夢か妄想のようなものにすぎない。

重要なのは以下の五つの考えである。順番に見ていこう。

第一の考えかたは古代の医学者ガレノスのものである。
おそらくサドカイ人たちも同じ考えだったであろう。
ガレノスは、体だけでなく魂も医学の支配下に
入れるため、人の魂も野の獣の魂も四元素と体液が
混じって生じる心身の状態、いわば命と活動のもとの
ようなものであると考えた。つまり、この魂とは
元素と体液がバラバラになれば死ぬようなものであった。

二つめは古代アラブ人や現代のカルダノの考えで、
ひとつの世界全体の魂が流れ出て個々の魂になる、
というものである。言いかたを変えれば、個々の魂は
存在しないということである。世界全体の魂は
この世の命ひとつひとつとなってあらわれて
それらがすることをおこなう。そうせざるをえない。
世界の魂は個々の命として表に出ずにいられない。
例えば、太陽がその光を放たずにいられないのと
同じである。あるいは太陽の光が透明なものを
通って光らずにはいられないのと同じである。

以上二つの考えかたを支持してきたのは
エピクロス派であり、また使徒の言う
「神をもたずにこの世を生きる者たち」である。
これらの愚かな考えは、キリスト教によって、
また賢い異教徒たちすべてによって、
誤りとして退けられてきた。

第三の考えかたは、プラトン派のものである。
彼らは、今住んでいるこの地球がわたしたちの
生まれ故郷とは考えない。わたしたちは、体という
拘束によってとらわれた奴隷である。昔、
わたしたちの魂は創造主に対して罪を犯し、
そのしるしとして、今、体に閉じこめられている。
神はすべての魂をみな等しく、一点のしみもない、
ありえないほど完璧なものとしてつくった。
魂がそのように完璧だったのは、それが神の
意志=意志と一体だったからである。しかし
魂は自分の意思=意志でそこから堕ちてしまい、
神の前から追放されて、この世に閉じこめられた。
が、悲惨で幸運が永続せず不幸に死ぬしかない、
というこの世の厳しい教育を受け、永遠不動なる
神の世界に再び帰りたいと考えられるようになったなら、
神の恵みによってそのような人の魂はもとの国、
生まれ故郷に再び受け入れてもらえるようになる。
体という奴隷船から解放されて、である。

このように考えたのはヘルメス、プラトン、
イアンブリコス、プロティノス、そしてその他の
神秘主義思想家である。おそらく古代や
最近のユダヤ人もそのように信じていた、あるいは
信じている。またキリスト教徒ではオリゲネスが
こう信じていた。

四つめの考えはキリスト教神学者のほとんどが
信じているものである。神は人の体のすべての、
あるいは少なくとも絶対的に必要な部分をつくった際に
魂を無からつくり、体の完成と同時にそれを吹きこんだ。

第五のものは……現代の多くの知識人が賛同し、
また古代の著名人たちも認めてきた考えかたであって、
第四のものと特に対立はしない。曰く、人の子の
魂は親の種から発生する。

以上のどれがもっとも正しいかは、まだ学術的に
証明されていない。……

[以降、第5の考え方、魂の遺伝が正しい、という議論が続く。]

次にていねいに考えなくてはならないのは、
神によってつくられたもののうち知性をもつと
されるもの、つまり人と天使にはその本質として
三つの部分があるということである。
この三つとはすなわち霊と魂と体であり、
その違いは、理性に従って考えれば、また神の
哲学を見れば、明白に示すことができるであろう。
わたしたちが時間の檻に閉じこめられていなければ。

霊という言葉でわたしが理解しているのは、
体と魂が共有するもの、二つをつなげるような
ものではない。むしろそれは人のなかにあって
もっとも高い地位にあるもの、いわば神に近い
はたらきをするものであって、これがあってはじめて
わたしたちは神と関係をもつことができる。
体も、役に立たない死骸のようなものではなく、
感覚ある、成長する、そしてかたちのある命の
部分が具体化したものである。魂とは神の世界と
獣の部分の中間に位置するものであるが、今回の
わたしの議論においては以上三つをおおまかに扱い、
魂という言葉で体に対立するすべてのものを
あらわすことにする。

創造という概念について言えば、スコラ派やその
思想を鵜呑みにする人たちが押しつけてきた
「無から何かをつくること」という理解は
誤りであって支持できない。なぜなら
創造と訳される "ברא" という言葉は、もとの
ヘブライ語や聖書においてそのような意味を
もたないからである。それが示すのは、「無から」
ではなく「永遠に、無限に」つくることである。
つまり、神とおおいなる深淵の空間から--
はかり知れない無限の空間から--無限の神の宿る、
無限の神が収まっているような、想像しうる
すべての地点において--創造がなされるのである。

第二に、この深淵、正しくは無限三次元空間は、
厳密に言って無ではない。……

第三に、この底なしのはかり知れない空間は
(神の次に)もっとも高度に存在の真のありかたを
あらわすものであるが、それは神自身ではない。
なぜなら、分割できるなど、性質上いくつかの点で
この空間は完璧な神の本質・ありかたの正反対で
あるからだ。だから然るべき名を与えるなら、
それは「神の体」となるだろう。さらに正確に
言うなら、神の永遠の住処となるだろうか。

第四に、この底なしの深淵は、哲学者たちが第一質料と
呼ぶものと同じ性質をもつと考えられるかもしれない。
つまりそこにあるのは、何かも、どれくらいあるのかも、
どんな性質なのかもわからないものである、と。
明確な質も大きさもかたちもわからない、
ただ何かが無限に全体としてそれがあるだけだ、と。
このようなことが示すのは、人の言葉や表現が
十分でないので本質的に有限のもののしか
はかってあらわすことができない、ということである。
無限の空間をあらわすにはそれはあまりにも
制限されていて、また矛盾が多く、それゆえ
否定のかたちでしか、想像を超える広大な空間の
ありかたを伝えること・見せることができないのである。
が、それでも特にこの深淵の特徴として四つの点が
あげられる。

1
かたちに向かう欲望または意思=意志、あるいは
集まり、塊になり、合体する力。

2
逆に塊になることに強く抵抗する力

3
上の二つの力の争いから生じる苦しみ。第一質料の
腸(はらわた)が噛みちぎられるような痛み。

4
燃えあがる大きな炎、あるいは真っ黒の火。

(つづく)

*****
Charles Hotham
From An Introduction to the Tevtonick Philosophie:
Being A Determination Concerning the Original of the Soul
(Wr. in Lat. 1647, trans. and pub. 1650)
Wing H2896

*****
散文。ホサムはケンブリッジ大の研究員。
この書は公開論争の原稿を出版したもの。
ドイツの神秘思想家ヤーコプ・ベーメ(Jakob Böhme,
Jacob Boehme)についての入門書。
彼の Three Principles of the Divine Essenceの要約。
(Sarah Hutton in Hutton, ed. Henry More, p.158)

ヘブライ語の箇所についてはよくわからない。
オンラインの英・ヘブ辞書には ברא = to create とある。

*****
正統的なキリスト教思想に反する議論:
魂は死ぬ。
世界の魂が個々の魂となる。(cf. ヘーゲルの「世界精神」)
神は、無からではなく深淵空間・混沌から天地その他を創造した。
神は体をもつ。

*****
このようなことを大学で研究者たちが本気で
「科学的」に議論していたということが重要。
今でも変わっていない部分・領域があるのでは
ないか。

もしかしたら、さらに悪化・劣化している面も
あるのではないか。

自分の研究は400年後の人々に評価されるはず、
と自信をもって言えるか。

*****
学生の方など、自分の研究・発表のために上記を
参照する際には、このサイトの作者・タイトル・
URL・閲覧日など必要な事項を必ず記し、
剽窃行為のないようにしてください。

ウェブ上での引用などでしたら、リンクなどのみで
かまいません。

商用・盗用・悪用などはないようお願いします。






コメント ( 0 ) | Trackback (  )