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嘘を楽しむ(エッセイ)

嘘を楽しむ

最近仕事でヤーコプ・ベーメ(Jakob Böhme [Boehme, Behmen], 1575-1624; 実際には「ボァーマ」と聞こえる)の著作に初めてふれた。ドイツの靴職人にして神秘思想家で、異端として攻撃されつつも人気を集め、イギリスでは1640-50年代に全作が翻訳されたようである。近年、アリエル・ヘサヨン(Ariel Hessayon)がウィンスタンリー、ランター(「暴言族」)およびクエイカー(「友の会」会員)らとの関連で研究を進めており、『ジェイコブ・ブァーマ入門』(Hessayon, ed. An Introduction to Jacob Boehme, 2014)のような本もある。(イギリス英語では「ブァーマ」と聞こえる。)

ミルトンとの関係では、1914年にすでに『ミルトンとヤーコプ・ベーメ』(M. L. Bailey, Milton and Jakob Boehme)なる研究書が出版されている。ボズウェルの『ミルトンの書斎』(J. C. Boswell, Milton's Library, 1975)で確認できるように、ミルトンはベーメの書を多数読んでいたらしい。神秘思想にもキリスト教の神秘的側面にも私は一切関心をもたないが、ミルトンが読んでいる、ケンブリッジ大の討論でヘンリー・モアの友人に擁護された(Charles Hotham, An Introduction to the Tevtonick Philosophie, 1650)、モアにも(批判含みながら)好意的に評価された、などというベーメは、やはり研究上無視できない。

そんな次第で、以下、ケンブリッジの討論でとりあげられた『神の本質の三原理』(A Description of the Three Principles of the Divine Essence, 1648)におけるアダムとイヴの描写を紹介する。アダム両性具有説をとるベーメだが、その議論が予想外に面白い。曰く、アダムのなかの現世的・肉体的要素が男性・青年であり、神が彼に吹きこんだ霊的要素が女性・純潔な処女である。そしてこの両者が対話する。青年――「君はぼくの花嫁、ぼくの楽園、ぼくの花冠。君の楽園のなかにぼくを入れて。……君に気持ちよく愛されたい」。処女――「確かにあなたはわたしの夫、でもあなたはわたしをきれいにしてくれない。真珠のほうがあなたより大事。……わたしの庭に来て。友だちとして仲よくしましょう。……でも真珠はあげない。あなたは闇で、真珠は光と輝きだから……」(108)。

これを見て思うのは、『失楽園』のアダムとイヴの場面にどこか似ているということ、それから、神秘思想と言われるのに「神秘」的でないということ。『失楽園』のアダムとイヴの話と同様、ベーメの議論も物語、楽しめる虚構のように見える。神秘の書というより今の映画、ドラマ、アニメ、マンガに近い。この感覚はどこから来るのだろう? 以下、私の考察である。

科学が高度に発達した現代に生きる私たちは、日々すべてのものについて「事実か、虚構か」を問いつつ生きている。そして、無害なものであれば虚構を楽しむ心の余裕をもっている。(最近の社会を見ると、そうでもなさそうだが。) おそらくベーメは今、そんな無害な虚構である。が、17世紀のイギリス、あるいはヨーロッパでは違った。当時の人々は、科学的に正誤を問えない諸議論について「正統か、非正統か」を問い、そして後者を排斥することで共有すべき世界観をつくり、保っていた。神秘という点では正統なキリスト教教義も異端思想も同じはずだが、非正統で異端的な神秘は危険とされた。それが当時のベーメなのであろう。

同時に、彼が少なからぬ好評・支持を集めたことは、彼の異端的神秘あるいは虚構(?)を楽しめる人、正統・非正統の対立を超える思考・感性をもつ人もいた、ということなのだろう。ミルトンのように。

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所属学会会報のために書いた文章。

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