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Willes, De Re Poetica

リチャード・ウィルズ
『詩について』
「詩に対する批判への回答」

何かを称える理由は、それが気高いから、あるいは役に立つから、である。が、詩は気高くないし、役にも立たない。むしろこのような言いかたは甘すぎる。詩は卑しく最低で有害だ。この卑しさの証明は以下のとおりである。

まず、詩の目的とは何か? 言わなくてもいい。わかっている。楽しみ、であろう。精神的な、そして感覚的な楽しみだ。この楽しみは、人だけでなく動物のものでもある。獣たちがオルペウスの歌の虜になった、という詩人たちの話を信じるのであれば。輝かしい技術である、人を動物のレベルに引き下げるとは!

2.
次に、詩は何を教えるものか考えよう。その内容は何か? ギリシャ、ローマ、その他の国の詩人の作品を読めばわかる。詩から学べるのは、まず呪われた人々、特に、鎌や車を発明したなどという理由で愚かな古代人が祭壇や神殿に祀ってきた者たちの所業である。本来称えられるべきは唯一の不死なる神であるのに。こうして詩人たちは、さまよい、争い、狩をし、宴をし、快楽に耽って乱れた暮らしを送る人々を描いてきた。そんな作品にどんな気高さがあるというのか? 人のどんな偉大さや尊厳が詩から学べると言うのか?

さらに言うが、古代人が神々とみなす存在を詩が描く時、つまり戦争、親殺し、その他数々の不敬で呪わしい恥ずべきおこないを描く時、これらは神々の定めとして、あるいは善への報い、悪への処罰とされている。老婦人、お婆さんの目から見たならただの愚行、嘲笑すべき馬鹿馬鹿しい内容であろうに。

3.
さて、神々から人に目を移してみよう。詩人は人についてどんなことを言っている? 神々について言ったこと以外に? 人を神々より優れた存在と描くことは不自然である。詩人は神々の恋愛を、淫行を、残虐行為を、罪を描いた。そしてこれら神々の悪行・不正を可能なかぎりもっとも正確に真似する者こそ最高の栄誉に値する、とした……。

4.
最高に気高い君主の姿は、ホメロスの描いたアキレウスに見られる。このアキレウスほど野蛮で獰猛な者はいない。賢い人とはどのようなものかはオデュッセウスを見ればわかる。彼以上の欺瞞・策略・嘘の達人はいない。最後につけ加えよう。詩人は王たちの権力と富が大好きで、いつも彼らの前でしっぽをふっている。

さて、ここから第二部だ。いかに詩が人を腐敗させるかについて書く。まず、詩人は若者にどのような疫病をもたらすのだろう? 詩人自身の、また他人の、抑えられない恋愛感情や性欲を描くことによって? そう、間違いなく詩人には悪影響がある。道徳を駄目にする。性欲や残虐行為や無意味な栄光や欺瞞について、上品で洗練された詩が書かれているから困る。言葉・内容ともに美しく、聞く者の耳に優しくふれ、心を完全に奪ってしまうのだ。まさに文章の魅力それだけで。これはどれほど有害なことか。生まれつき歪み腐っているわたしたちの欲望の対象、見たい、体がふらふらついていってしまう、考える前に衝動的に求めてしまう、そんなものごとが目の前に描かれるのだ。言葉で描かれなくてもこの内容自体に魅力があり、また内容がなくても言葉だけで魅惑的であるのなら、甘い毒入りの内容に甘い言葉のスパイスがふりかけられた時に何がおこるか、察するまでもないだろう。詩のリズムはそんな内容のためにあみ出されたのではないか? つまり、人がますます悪いことをしたくなるように? 確か、詩人たちは高ぶる歌を歌ったから、信心深く敬虔で神聖とされていた。神の幻を見ていると思われていた。少なくとも、オウィディウスはそう言っていた。

わたしたちのなかにいるのは神?
神に突き動かされてわたしたちは燃えている?
抵抗できないこの衝動、
これが聖なる、特別な、精神の源?

いやいや、プブリウス・ナソ、女の子のさらいかたを教えたり、女の子を破滅させて喜ぶ勝利の歌を歌う君には、むしろこう尋ねたいところだ。

君のなかにいるのは冥界の王?
闇の王に突き動かされて君は燃えている?
抵抗できないその衝動、
それこそ残虐な死の源?

ティブルスの歌もカトゥルスの11音節詩もプロペルティウスのエレギアもマルティアリスのエピグラムもホラティウスのオードも似たようなものである。あのような詩を書いたから、つまり、人の愚かな、価値のない、淫らな、罪深いふるまいを神々のものとして描いたから、ホラティウスやホメロスは天才の父と呼ばれたのか? むしろ、ごみのような嘘の父と呼んだほうがはるかに適切ではないか! 詩も詩人も、わたしたちにとってなんの役にも立ちはしない。そこにあるのは残虐行為と嘘と野心と淫らな欲望と恥だけである。

2.
だから、詩はごみ・くず、と言ったエラトステネスは正しかった。『パイドロス』でプラトン曰く、詩人が語るのはつくり話である。アリストテレスによれば、「詩人は嘘ばかり言う」。もしこのように詩がひとえに虚偽・嘘であるなら、そんなものをつくる才能に何の価値がある? 実際、プラトン・アリストテレスのような重要な著作家は、真実を語る詩人はもはや詩人の名に値しないと考えた。だから、創作ではなく実際にローマ人が戦った内乱を英雄詩にしたルカヌスは、いずれ詩人として扱われなくなるだろう。実際の農耕を指南する時のウェルギリウスもだ。詩の特権はつくり話の国でのみ有効である。その根拠は真理ではなく嘘なのだ。

3.
非常識で下卑た喜劇はどうか? 詩・つくり話を舞台にあげて客に見せる、つまり詩人が自分が嫌いな者たちを無礼な言葉でこきおろす--そんな厚顔無礼に対し、まず裕福な有力者たちが取締りを試みた。次に法がつくられた。他人を口汚く侮辱する詩を書くこと、他人の誹謗中傷を舞台にあげることが、禁じられたのである。これで諷刺喜劇が沈黙し、姿を変えることとなった。よりくだらないことが劇の主題となっていった。すなわち、恋愛、娼婦のかけひき、ポン引きの罵り、兵士たちの無礼・残虐などが、である。こういった内容が扱われるようになったので、劇場に人が押し寄せるようになった。こどもから大人までの女たち、職人、教養のない連中が、である。驚愕を禁じえないほど道徳は低下した。劇を見て、そのせりふを聞いて、恥ずかしい行為に耽る者が続出したのである。

4.
あえて言いたくはないが、恋する男たち--言いかえれば、恋愛感情や欲望を制御できない奴隷たち、とっとと地獄に堕ちてほしい奴ら--は、そんな劇をおおいに活用している。恋のかけひきに使えるからだ。詩は、欲望を満たす、恥ずかしい行為の数々を実現してくれる、そんなポン引きになり下がっているのである。みんな知っているであろう、楽しくいやらしいことがしたいなら、男は歌ったり、楽器を弾いたり、きれいな嘘を語ったりできたほうがいいのだ。これはなかなかすばらしいテクニックだから、親から子に伝えさせよう。教育して、訓練して、恥ずかしい人生を! いやはや、詩や劇ほど若者に悪影響を及ぼすものがあるだろうか?

5.
だから、プラトンは詩人や作家を彼の理想の国から追放した。彼らの作品は国家にとって有害なのだ。

6.
詩が善良であるなら、詩人も善人になるはずだ。が、いにしえの作家たちの生涯を見るといい。彼らはみなベロベロの酒浸りか恥知らずなクズ野郎か社会のルールをまるで知らない馬鹿、場合によってはただの狂人である。だから詩人の作品は酒くさい。もしくは浮気・姦淫ばかり語る。もし、何かの弾みで詩人が清らかなことを書いたとしたら、それは彼らの生きざまに完全に矛盾する。まったく、オウィディウスの言葉は最高の冗談だ。

書く話はいやらしくても生きかたはまじめ。

7.
最後にもうひとつ。デモクリトスらはこう言った、詩神にとり憑かれていないような詩人は詩人ではない。万歳! 正常な精神と共存しえない詩よ、永遠なれ! アウグストゥスがしたように、わたしたちも詩人を嫌おう。詩人に近寄らないようにしよう。彼は、恋の技を発明したオウィディウスを国から追い出した。追放して地の果てに閉じこめた。野蛮な者たちのなかでせいぜい苦境を詩に書いて嘆くがいい、と。そもそも詩を書いて捕まって追放されたのだから、それが当然の報いである。

これら、および類似する批判を、悪意ある者たちは詩という芸術に対してしつこく投げかける。教養のない者は、それをまったく正しいことと考える。若干の教養をもつ者は、まあそうかな、程度に考える。しかし真の知識をもつ賢い人から見れば、これらはまったく愚かな嘘である。上の議論はみな詩を理解せず不当に扱うものであり、知恵ある者の言うことではない。知恵があれば、詩それ自体を攻撃したりはしない。悪い詩人は避けるべき、と言うのみである。……しかし、詩に対する批判ひとつひとつに答えていこう。その議論はニ部門に分けられる。まず、詩が四点で下劣で卑しいということ、第二に、詩が七つの理由で害悪をもたらすということ。この最初の誹謗中傷は、詩の目的を考えれば容易に退けられるであろう。詩の目的は上に見たような身体的な快楽のみではなく、そこに道徳教育も含まれるからである。調和する詩の言葉は、共同体のなか自由に生きる者の精神を然るべき美徳に目覚めさせるのである。

(回答2)
第二の議論は、詩というよりも、キリスト教以外の宗教に対する非難である。つまり、すべての領土や国家の人々、すべての君主や皇帝、すべての知識人や賢者、実際、唯一の真の神を信じることを知らないすべての者が、非難されているのである。詩人たちだけではなく。詩人は、異教の神々の使いとして、全世界が栄誉に値するとした者たちを最高の言葉で称えているのみである。そんな盲目な詩人たちからわたしたちは学ぶ。彼らにならって、彼らの博識を汲んで、彼らの詩の規則や言葉の調和、そのリズムや形式をとり入れて、選び抜かれた彼らの言葉を用いて、よりふさわしいかたちで高く永遠なる神を称えることを。わたしたちは、非キリスト教徒より敬虔であるべきなのだから。

(回答3)
詩人たちは、犯罪など人の恥ずべき行為を歌う、とも批判されている。だが、それだけでもないだろう。恥ずべき行為のみでなく、彼らは神を恐れぬ恥ずかしい者たちが受ける罰をも歌っているからだ。プロメテウスの話を見てもいい。シシュポス、イクシオン、ベロスの子たちの話でもいい。同時に、詩人は正しい人々やその美徳、そして彼らが得た報酬をも称えてきた。さらに言うが、すべての詩人が悪人を称えているわけじゃない。ウェルギリウスは悪を歌わない。彼が歌ったのは人と戦争についてであり、敬虔なアエネアスの姿をわたしたちに描いてみせた。そんなウェルギリウスの詩ほど、清らかで優雅で気高いものはない。彼が身を落として軽薄な内容、例えばアエネアスとディドの恋などを扱ったとしても、その技術と慎みと威厳ゆえに、このうえなくすばらしいできばえである。アリストパネスの劇のなか、エウリピデスはアイスキュロスについて同じことを言っている。

(回答4)
アキレウスは野蛮人、オデュッセウスは嘘つきであるが、その分だけホメロスはさらにおもしろいと言うべきだ。彼らの長所だけでなく、ちゃんと短所も描いているのだから。逆に、多くの弁論家やたいていの歴史家は、君主たちの偉業を語りつつその罪には目をつむってきた。だから詩人たちが人の悪を作品で明確に非難してきたことについて、わたしたちはどう考えるべきだろう? 悪に仕える者たちは、ホラティウス、ユウェナリス、ペルシウスら諷刺詩人たちにさんざん咎められてきたではないか? カトゥルスはその11音節の詩で、ユリウス・カエサルに永遠に消えぬ汚名の焼き印を入れたではないか? 恥ずかしげもなく彼がマムラと戯れるところを描いたのだから。わたしたちの祖先や君主や王や将軍や皇帝や教皇たちは、みなアレティノのような詩人を恐れてきたではないか? そう、だから詩人たちが君主や皇帝の悪を許さないことは明らかである。許さないどころか、見逃さず、堂々ときつい言葉を浴びせるのだ。もちろん、弁論家や著作家と同様、詩人も誰かを称える時には、天に届くほどその人をもちあげるのではあるが。

次に、詩を攻撃する者は、詩が疫病のようなもので危険だと言う。しかし、もしそうなら、なぜアリストテレスは考えたのか、若きアレクサンドロス大王に美徳を教えるにはホメロスを読ませるのがいちばんよい、と。彼はホメロスから、正しく幸せな、そして君主にふさわしい生きかたに関するすべてのことを余すところなく学んだのだ。なぜエジプト王プトレマイオスはあれほどの代償を払ってまで喜劇作家メナンドロスを雇ったのか? なぜマケドニアのアルケラオスはエウリピデスに、マエケナスはホラティウスに、あれほどの賛辞を贈ったのか? なぜキケロはカトゥルスやアルキアスやカエリウスをあれほど好んだのか? ウェルギリウスはアウグストゥスの前で、ソポクレスはアテナイの人々の前で、アイスキュロスはシュラクサイのヒエロンに、作品を読みあげて、そしてあれほど高く称賛されたのはなぜか? さらに言うが、ルクルスでさえカエキリウスの喜劇を見たのだ。だが考えよう、どうしてここまで詩人が敵視されるのか? 恋愛を歌うからだ。淫らな詩人はクビだ。で? 淫らでない詩人もいるだろう? そのとおり。ウェルギリウスは清らか、アイスキュロスも清らか、他にもいる。しかし、ほとんどの詩人の作品は猥褻だろう? いや、それでも、すべての詩がそういうわけではない。淫らな本はみんな捨てればいい。理性に従うなら、そうすることが道徳的に正しいはずだし、キリスト教においても求められる。

だからウェルギリウスを読もう。彼は大丈夫だ。ホラティウスも読もう。だが、悪いところは飛ばさなくては。マルティアリスを読もう。去勢されたアウゲリウス版で。オウィディウスの『祭暦』、『悲しみ』、『黒海からの手紙』もいいだろう。だが、彼自身がこう言って断罪した他の作品は駄目だ。

青く若かった頃にもてあそんだ
くだらない作品は嫌いだ。罪深いと思う、今更ながら!

カトゥルスの詩やテレンティウスの喜劇を若者に対してあえて薦めることはできない。が、学校の先生には、彼らの作品から美しいラテン語の文体・表現の模範を探して生徒たちに示すよう強く促したい。ティブルスからはわかりやすい文章の書きかたを学ばせよう。彼は他の誰より楽しく、繊細で、簡潔で、美しい詩を書く。それに何より、彼の詩は自然だ。異質な魅力があるからプロペルティウスも使えるだろう。彼はティブルスより骨太で、正確で、そしてていねいな作品を書いている。これらの詩人は小さい頃から、つまり性欲が芽生える前から、読ませるべきだ。カトゥルス自身も言っていたように、敬虔な詩人は純潔でなければならない。他に評価すべき詩人たちはあまりいない。ルカヌスやセネカは一見輝かしく見えるが、スペイン人の彼らがもたらしたのは大袈裟に誇張された文体にすぎない。それがかの国の国民性である。その影響で詩は、飾りのない、いわば正しい、自然の模倣から離れてしまった。(アテネから離れて生きた者たちの詩と同じ道をたどったということだ。) 彼らの作品には、ローマの言葉本来の美しさがないのである。

確認しよう。ここにあげた者の作品には確かに淫らなところがあるが、もし少しでもいやらしいところがある本をすべて捨てなければならないなら、歴史家の年代記にはみなさよなら、である。自然に関する哲学者の議論も、医学の論文も、教会法の一部も、認められないことになる。聖書中の掟も家系の話も、ソロモンの歌も駄目だ。

(回答2)
つくり話をするのが詩人であるなら、ルカヌスは詩人と言えない? ホメロスのように二つめの点から答えよう。詩人の仕事は、存在しないものをつくり出すことだけではない。存在するものを模倣することもそこに含まれる。加えて言えば、詩人が話をつくるのは悪いことじゃない。数学者が存在しない多くの円を空に見ても恥ずかしくないのと同じだ。それに実際、数学者はいつも質料をもたないかたちを扱う。何らかの大きさをもつものにはすべて質料があるはずなのに。それから、どんなものであれ詩人のつくり話は、何がためになるか、あるいはならないかを教えるためのものである。例えば、オルペウスの歌を聴けば木も感動する。言いかえれば、詩は田舎の無知な人をも楽しませることができる。アクタイオンは鹿に変身させられて犬に食い殺される。すなわち、金銭感覚のない金持ちがお気に入りをたくさん抱えれば、その富はあっという間になくなる。こんな例をひとつひとつあげていっても、しかたがないだろう。

(回答3)
劇や諷刺や他の詩に見られる上記のような大胆さは、人を悪に誘うためのものではない。むしろ、悪を思いとどまらせるためのものである。だからこそ淫らなものも非難に値するものも、みなあくまで虚構ととらえられてきた。また、ある詩人の淫らさのために詩人すべてが責められるのはおかしい。もうひとつ言えば、諷刺や暴言は弁論家の文章のなかにもあるはずだ。

(回答4)
だから批判に答えて主張しよう。詩は悪のしもべではない。悪い詩人は詩を濫用するかもしれないが、それは、(実際よくあるように)道からはずれた哲学者が弁証法を、不誠実な修辞家が雄弁術を、濫用してきたのと同じことである。キケロが言うように、そのような者たちに自由に語る機会を与えても弁論家になどなれやしない。それは、たんに狂人に武器を与えるようなものである。さらに別のかたちで言うが、悪い目的のために多くの曲が用いられてきたからといって、音楽も廃止しなくてはならないだろうか?

(回答5)
プラトン自身も同じ箇所で説明している。彼はたんに詩人であれば誰でも追放、と言っているのではない。悪い詩人は追放、と言っているのである。

(回答6)
いかがわしい酔っ払い詩人は確かにいるが、それが何だというのか? 淫らであること、酒に溺れること、これらは詩人の、というより、全人類の悪癖である。それで軽薄なタイプの詩人はこれらを詩に描く。すると、趣味の腐った者たちが喜ぶのだ。カトゥルスが11音節の詩で言うように、

詩は面白くない、美しくない、
官能的でいやらしくないならば。

しかし、だからといってすべての詩人を淫乱、ワイン浸りとみなすのは、まったく無礼な話だ。

(回答7)
狂乱・神にとり憑かれた状態には四種類あると言っていいだろう。そのうちの二つは批判されることがあるが、残りの二つはよいこととされる。プラトン曰く、四つの名は、それぞれ、妄想狂乱、恋愛狂乱、幻視狂乱、詩的狂乱である。最初のものは酔っ払いのそれだ。酔っておかしくなった時に彼らはふだん見えないものを見る。恋する者の荒れ狂う感情が二つめのものである。プラトン曰く、「愛の神、などよく言うが、実際それはつらいもの、震えるほど恐ろしいものである」。三つめの狂乱は文字どおり幻視者の、四つめは詩人の、それである。デモクリトス曰く、詩人はとり憑かれて我を忘れているというより、むしろ心を集中しすぎてみずからの描く感情に入りこみすぎている。それで狂乱興奮の状態に陥っているように見えるだけ、神の霊感を受けて頭と心があちこちに行ってしまっているように見えるだけである。これは私たちにもよくあることだ。何かを真剣に考えている時など、無我夢中になって我を忘れているものだから。だからアリストテレスも、哲学者はとり憑かれていると言った。デモクリトス曰く、この「狂乱」の状態に陥らなければ、偉大な詩人にはなれない。

オウィディウスについていえば、彼がスキュティアに追放されたのは詩人だったからではない。彼が淫らだったから、あるいはむしろ、彼自身がよく不満げに語っていたように、『恋の技法』ゆえにではなく、何かカエサルがしていた卑しい行為を見てしまったからである。

なぜわたしはあれを見てしまった? なぜ目に罪を犯させた?
なぜ愚かにもあの過ちを知ってしまったのか?

詩という芸術、詩人の作品については、もうこれくらいで十分であろう。以下は、註そのものである。それを見れば、わたしの詩の意味がわかるであろう。

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Richard Willes
De Re Poetica (1573)
Tr. A. D. S. Fowler

原文はラテン語。その英語訳から日本語へ。

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