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夏目漱石、『こころ』

夏目漱石、『こころ』
(ノート)

大枠において『こころ』は、デフォーの『ロビンソン・
クルーソー』、スウィフトの『ガリヴァ―』のような
「遺された自伝」形式のなかで、講演「現代日本の開化」や
「文芸と道徳」の内容をアレゴリー化して語ったもの。

「K」は開化以前の日本のアレゴリー。おそらく
「K」は「旧幕」あるいは「過去」のK(下41, 43)。
「道」、高すぎる理想を求めて生きている。
(「文芸と道徳」にあるとおり。)

「先生」は開化した明治の日本のアレゴリー。
だから彼のうちで「自然」と「自分以外のある力」が
せめぎあっている(下46, 52, 55)。
「現代日本の開化」にあるとおり。

先生の妻や上7にある初恋の女性は、なんらかの美しい、
しかし手の届かない、そしてよくは理解できない新しい
理想という位置づけ。正しく偉大なはずのKも、
「すべって」しまった姑息な先生も、ともにこれを
(本当の意味で)手にすることができずに自滅。

次世代をあらわす上・中の「私」はこの二種の破滅を
受け継ぎつつ自分の立ち位置を探っていかねばならない。

中「両親と私」に描かれているのは、「開化」したか
どうかわからないような田舎の日本としての「私」の父。
この人物も浣腸されながら死につつある。
(とてもイギリス趣味的なイメージ。)

以上のような社会思想的なアレゴリーを名作、傑作と
呼ばれうる心理小説(?)として肉づけしているところに
漱石の力量が見える。

逆に、性的な内容をきちんと扱いえていないところに、
漱石や当時の日本文学の限界あるいは特徴が見えるよう
に感じられる。(この点では当時のイギリス文学も同様。)

以上、私見まで。
先行研究のリサーチはこれから。

* * *
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