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Rossetti, CG, ("When I am dead, my dearest")

クリスティーナ・ロセッティ(1830-1894)
(「わたしが死んだら、ね」)

わたしが死んだら、ね、
悲しい歌は歌わないで。
お墓の頭のところにバラは植えないで。
影をつくるイトスギもダメ。
お墓のところの緑の草を
雨や露で濡らしておいて。
そして、思い出してくれてもいいし、
忘れてくれてもいい。

わたしにはもう影が見えないだろうし、
雨も感じない。
ナイチンゲールの歌も聞こえない、
痛々しく歌っていても。
そして、昇りも沈みもしない
薄あかりのなかで夢を見ながら、
わたしも思い出すかもしれないし、
忘れるかもしれない。

* * *

Christina G. Rossetti
"Song" ("When I am dead, my dearest")

When I am dead, my dearest,
Sing no sad songs for me;
Plant thou no roses at my head,
Nor shady cypress-tree:
Be the green grass above me
With showers and dewdrops wet;
And if thou wilt, remember,
And if thou wilt, forget.

I shall not see the shadows,
I shall not feel the rain;
I shall not hear the nightingale
Sing on, as if in pain:
And dreaming through the twilight
That doth not rise nor set,
Haply I may remember,
And haply may forget.

* * *

以下、訳注と解釈例。

日本語にするのは簡単な、とてもシンプルな作品だが、
バラ、イトスギをはじめ、とりあげられているものの
もつ象徴的意味やニュアンスまで考えないと、
実際何をいっているのかよくわからないという、
なかなか練られた詩。

3 roses
特に書かれていなければ、バラといえば赤いバラ。
愛と美の女神アプロディテ/ウェヌス(英語読みでヴィーナス)の花。
(ド=フリース、『イメージ・シンボル事典』など参照。
ウェブ上では、たとえば、次のものなども。Symonds, JA,
"The Pathos of the Rose in Poetry," Time, new ser. 3
[1886]: 396-411,<http://books.google.co.jp/books?id=
C6IdsKh2HX4C&d>.)

恋人アドニスを失ったウェヌスの涙がバラになったとか、
あるいはアドニスの血がバラになったとか。
(オウィディウス、『変身物語』10巻では、アドニスの血は
アネモネになる。)

今でも同じだが、恋人には赤いバラを、というのが
詩のなかでも定番。(20110702の記事のWallerの
詩でもそう。)

つまり、お墓にバラを植えないで、というのは、
もう死んでるんだから、バラはいらない
=キレイとか、好きとか、いってくれなくてもいい、
ということ。生きているときのように接して
くれなくていい、という。

3 at my head
お墓のなかのわたしの頭の上の地面のところ。

4 cypress
イトスギ。死の悲しみ、喪の象徴(OED 1a, 1c)。
オウィディウス、『変身物語』10巻に、大好きだった鹿が
死んでしまったときに、一生嘆いていたい、といって
イトスギに変身させてもらう少年キュパリッソスの話がある。

イトスギを植えないで、というのは、たとえば、
死んだからといって嘆き悲しまないで、ということ。
完全に死んだ、みたいに扱わないで、という。

つまり、3-4行目は(上のような意味で)矛盾している。
死んだわたしに対して、死んだ者として接してほしいのか、
生きてるように接してほしいのか、よくわからない。
(「わたし」自身、わかっていない。)

墓地のイトスギ(影をつくっている)

By Oliver Dixon
http://commons.wikimedia.org/wiki/File:Auchteraw_
Burial_Ground_-_geograph.org.uk_-_1497138.jpg

5-6
緑の草=生き生きしているイメージ。

雨=草に命を与えるものであり、涙のようなもの、
悲しみをあらわすものでもある。(プラス、ふつうに
うっとうしい、というのも?)

露=キレイ+涙のような、悲しみをあらわすもの。

つまり、5-6行目も矛盾している。わたしの墓を、
生命力=再生などを感じさせる場所、いわば
生き生きとしたところにしてほしいのか、それとも
悲しむための場所にしてほしいのか、よくわからない。
(「わたし」自身、わかっていない。)

7-8
覚えていてもいいし、わすれてもいい、ということは、
つまり、自分としては、どうしてほしいかわからない、
ということ。

3-6行目の矛盾、あいまいさは、みなここにつながる。
永遠の愛、悲しみ、再生など、死と関連することがらを
思い浮かべることはできるが、実際、「わたし」自身にとって
それらが何を意味するか、わたし自身が死後何を感じ、
恋人から何を望むか、などということがわかっていないようすを
あらわしている。

9
死んでしまっているから、4行目のイトスギの
影が見えない、ということ。

同時に、死んでしまっているから、世界や人生の闇の
部分がもう見えない、ということ。

世界や人生の闇をもう見ない、というのは、ある意味で
幸せなことであると同時に、不幸なことでもある(完全な無、
虚無をあらわすから)。

つまり、ここで死後の世界は、幸せなものととらえている?
それとも不幸なもの? それがよくわからない表現になっている。

10
雨とは6行目の雨。雨を感じないというのは、
悲しみを感じない、うっとうしくない、という点でいいこと。
同時に、命を与えるものを感じない、という点で悪いこと。
で、結局どっち?

11-12
ナイチンゲールという鳥の鳴き声はとてもきれいで、
歌の上手な人、詩人の比喩として用いられる(OED 1, 2)。
この意味で、ナイチンゲールの歌が聞こえないというのは
マイナスなこと。

同時に、ナイチンゲールとは、オウィディウス、『変身物語』
6巻において、ピロメラが変身したもの。

---
(プロクネとピロメラとテレウスの話)

1
テレウス(トラキアの王)とプロクネは夫婦。
ピロメラはプロクネの妹。

2
テレウスがピロメラをレイプ。(頭おかしい。)

3
ピロメラがこれを暴露しないように、テレウスは、
彼女の舌を切る。(完全に頭おかしい。)

4
ピロメラは、自分がされたことを描く布を織り、
それをプロクネに伝える。

5
怒り狂ったプロクネは、自分とテレウスの子を殺し、
料理に入れてテレウスに食べさせる。(プロクネも
途中から完全に頭おかしい。)

6
それを食べているテレウスに、プロクネは、
「その肉はあなたの子なの!」と教える。

7
怒り狂ったテレウスは、プロクネとピロメラを殺そうと
追いかける。

8
もうつかまる、というときに、二人は鳥に変身して
逃げる。プロクネはツバメに、ピロメラはナイチンゲールに。

(絵画のテーマになっているエピソードですが、
グロなので、画像は自粛。関心のある方のために、
一応URLのみ。)

http://commons.wikimedia.org/wiki/
File:Bauer_-_Tereus_Philomela_Procne.jpg

http://commons.wikimedia.org/wiki/File:
Antonio_Tempesta_-_Tereus_Philomela_Procne.jpg

http://www.wikipaintings.org/en/peter-paul-
rubens/tereus-confronted-with-the-head-of-
his-son-itylus-1638
---

つまり、痛々しく歌うナイチンゲールの声が聞こえない、
というのは、ある意味幸せなこと。

で、結局どっち? ナイチンゲールの歌が聞こえないのは
いいこと? 悪いこと?

13 twilight
夜明け前、太陽がまだ地平線の下にあるが、地平線上が
明るくなってきている状態。あるいは、日没直後、太陽が
地平線上に見えないのに、まだぼんやり明るい状態(OED 1)。

つまり、明るいのか、暗いのか、どっち? というあいまいさを
あらわしている。

13-14
そんな薄あかりが昇りもせず、沈みもせず、つづく状態が
死後の世界、と想像している。(rise昇る、set沈む、というのは
ふつう太陽に対して用いられる語。)

昇るのか、沈むのか、どっち? というあいまいさ。

15-16
思い出すかも、忘れるかも、というあいまいさ。
(生きていたときのことを、あなたのことを。)
死後、自分がどう感じるか、「わたし」自身にも
よくわかっていないようすをあらわす。

* * *

結局、この詩でわたしがいっていることは、
「わたしが死んだら、ね・・・・・・あなたにどうしてほしいか、
よくわからないわ・・・・・・自分がどうなるかも
わからないわ・・・・・・」ということ。

当然ながら、読者にも、この「わたし」が何をいいたいのか、
わからない。「わたし」であれ、読者であれ、生きている
人間には死後の世界を具体的に想像することができないから、
これらはあたりまえ。

で、ポイントは、このような内容のよくわからない詩から、
「わたしが死んだら・・・・・・」ということが話題になるような、
「わたし」と恋人(my dearest)のなんともいえない関係が、
微妙なかたちで想像されるということ。

それから、「わたしが死んだら・・・・・・」ということを
考えてしまう(考えざるを得ない?)「わたし」の性格/
感受性/身体的状況なども、微妙なかたちで想像される、
ということ。

* * *

英文テクストは、Poems by Christina G.
Rossetti
(1906) より。
http://www.gutenberg.org/ebooks/19188

* * *

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