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『教育における自由』ノオト その1

2012-08-13 10:57:51 | Weblog

 滋賀県大津市で起きた中学校におけるいじめの問題から、教育が様々に論じられている。確認されない事実がセンセーショナルに報道され、教師、教育委員会の対応が批判されている。

 私は、ここは冷静に、現在の教育が直面している課題や構造を分析するべきであると思う。以下にある一文を見つけた。良く捉えられていると思ったのでノオトを記す。

 

 『社会変動と「教育における自由」』(広田照幸)ノオト:『自由への問い5 教育 せめぎあう「教える」「学ぶ」「育てる」』(広田照幸責任編集 岩波書店 2009年刊)所収論文。

 1 他者の自由を制約する自由

 ①教育は、「強制を通して自律的な存在を作る」というパラドクシカルな営みである。命令・禁止・許可・質問・誘導・説得・観察・評価などの行為は、子どもに対する権力作用である。つまり「教育する自由」とは、子どもの自由を制約する自由である。②国、教育委員会、各学校、教師、親など様々な主体間で「教育する自由」(権限)をめぐる綱引きがなされている。

 2 子どもの自由と不自由

 教育は、未熟な存在である子どもの自由を制約することによって、「自由を行使する主体」を形成する営みである。

 2つの対立する考え方があるがどちらが正しいという結論は出ていない。。①子どもの自由を制約し、何らかの物事を無理にでも学習させることが、自律した主体を作るために必要だ。教育的観点からの強制、すなわち子どもにとっての不自由が、最終的に個人に自由と自律性を与える。②子どもに対する強制をできるだけ取り払い、目の前の子どもを自由にさせることこそが、最終的に個人が自律性と自由を獲得する最善の方法だ。

 3 教育する自由

 戦後のある時期までは、不自由(学校的世界への適応)を通して自由(経済的、知的、道徳的)を獲得するという物語が成立していた。当時の「教育における自由」をめぐる争点は、「国家の教育権」と「国民の教育権」という対立の構図であった。

 1950-1970年代、自由を脅かす潜在的な脅威は国家であると感じられていた。教員の政治的中立、道徳の時間の設置、教育委員会の任命制化、学習指導要領の拘束力、勤務評定・全国一斉学力テスト、教科書検定、校長・教頭・主任など管理職導入などの問題で、中央行政と教員組合が対立した。

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