晴走雨読

晴耕雨読ではないが、晴れたらランニング、雨が降れば読書、きままな毎日

『教育における自由』ノオト その2

2012-08-14 21:13:49 | Weblog

 お盆の長距離ラン(22km)感想。スポーツ用品の性能は日進月歩、一昨日購入したひざ下までのランパンを初着用。汗がいち早く外に排出され、乾きも早いので、ベタベタ感が無く、膝、腰周りの生地の弾力性も適度で履き心地がグッド。

 月刊『情況』別冊吉本隆明追悼特集を探して、5軒目の三省堂でようやく購入。紀伊国屋書店、ジュンク堂、リーブルなにわ、アテネ書房いずれも品切れ、そんなに売れる本とは思わないが、なぜか品薄情況らしいっす。

 夏至の時は真上から太陽が当たっていたが、8月も半ば、太陽が低くなってもまだ日差しは強く、まともに身体が焼かれるので熱中症に注意。私は、一度ひどいのをやっており、そういう人は頭の中の回路が壊れていて熱中症になりやすいとのこと。

 

 『社会変動と「教育における自由」』 ノオト その2   

4 親の位置

 1970年代、それまでの「国家 対 教師・親」という構図とは別に、「学校・教師 対 親・子ども」という新たな対抗軸が浮上した。「古い体質の学校」「時代遅れの教師」が、親の側から批判されるようになった。伝統的な「教育政治」構造とは、文部省―都道府県教委―市町村教委―学校という垂直的な教育行政(上意下達による管理統制)の体制、実際には教育委員会、管理職(校長会)、教職員(教職員団体)の間である種の(対立と妥協)教育専門家集団に閉じられたコーポラティズム体制である。1980年代末からは、「父母の学校参加」「学校選択」「学校間競争」が主張されるようになった。

 

5 親のニーズの限界

 ①親や子どもが教育のあり方を自由に選べることに伴う負担や責任の問題。②親の自由は、他者不在の閉ざされた自由になりがちで、しばしば公共性を欠いている。親の「教育する自由」の主張は、親や子どもごとに細分化された個別ニーズに公教育が応えるように要求されるようになった事態を意味する。学校参加は、「多数派の専制」という形で、十分な発言力を持たない親や子どもを抑圧・排除する仕組みとして作動する可能性がある。

 

6 教育の自由をめぐる紛争

 「親の教育の自由」として表明される個々の親のニーズが、どこまで公教育の制度や内容や方法に反映されるべきかという課題。「自由」をめぐって未決定なままにおかれた境界線を確定させる契機が、個々の紛争やトラブルなのである。


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