晴走雨読

晴耕雨読ではないが、晴れたらランニング、雨が降れば読書、きままな毎日

国語の時間

2009-02-21 18:52:15 | Weblog
 高校での国語の先生の思い出といえば、石倉先生は国士舘大学出身でいつも「柳田(國男)先生、柳田先生」と言っていたこと。古文の男澤先生には、父と私の親子2代が習ったこと。漢文の吉川先生は、演劇部の顧問で私たちより2年上級の生徒に殴られたことなどです。

 先日、高校で国語を教えている先生たちと話すことがありました。どこかで聞いたことがあったので、「なぜ、教科の名前を国語と呼んで日本語と呼ばないのですか」と尋ねた。

 曰く「全くそのとおりで、他の国でそのような例はほとんど無い。フランス語、ドイツ語、イタリア語、ロシア語・・・でしょう。」

 「歴史は、国史と言わず日本史です。国史というのは、戦前の言い方で、皇国史観に基づく歴史です。」

 「標準語という言い方もおかしい。裏を返すと方言などは非標準語ということになる。共通語というべきだ。」

 「表日本、裏日本という言い方も間違い。日本海側、太平洋側というべき」

 さすが、言葉に対する知識が凄かったです。話しが段々と進み、チョイと酔っ払ってくると、

 「中華人民共和国、中国いう言い方は、中華思想から来ていて、自分たちが世界の中心と言う意味があり驕りのある言葉使いです。それに反して、支那(シナ)は、戦前の日本が蔑称として使ったためイメージが悪いが、歴史的には正しい呼び方だと思う。」

 「中華思想に基づく例では、卑弥呼の卑という字は、卑しいという字で、通常は名前に使う字ではない。これは、中国からみた日本を属国扱いしているからである。」

 「中国より南方の民族を南蛮と呼んだり、北方民族を匈奴と呼んだりするときに使っている字は、中華思想を表している。」など、実に楽しい歴史と言葉の勉強であった。

 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする