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『皇后考』 その4 

2015-10-25 16:45:06 | Weblog

 札幌で初雪。急に寒くなったので今日の散歩は中止。冬のリハビリ―どうするか。車で出かけると、ここもランニングした道だな。この坂はきつかったな、と思い出します。こんな形でマラソンをやめてしまうのだろうか、いやいやまた走れるようになるさ、と心が揺れ動きます。

 

 『皇后考』 その4

 引き続き『皇后考』(原武史著 講談社 2015年刊)第17章から第23章(終章)までの昭和時代をノオトする。

 1926(昭和元)年、皇太子裕仁が天皇になったのに伴い、弟の秩父宮雍仁(やすひと)は皇位継承権第一位となった。1928(昭和3)年皇太后となった節子の意向もあり、秩父宮と松平節子(勢津子と改名)が結婚する。当時の問題は、裕仁と良子の間に、女の子は産まれるが、男の子が生まれないことにあった。そこで、秩父宮に期待がかけられた。だが、1933(昭和8)年、第五子として第一皇子明仁(明仁)親王が生まれ漸くにして解決することになった。

 著者の原氏は、(P444から引用)「天皇家を継ぐべき長男(第一皇子)の家系が断絶し、次男(第二皇子)の家系に皇位が継承されるという事態は、2006(平成18)年に秋篠宮夫妻に悠仁(ひさひと)親王が生まれたことでにわかに現実味を増した。」とする。

 昭和天皇は、幼少の頃から皇太后が自分よりも秩父宮を可愛がっていることから、戦争が続く中で自分に万が一のことがあれば、幼い皇太子が天皇を継ぐことになるが、摂政に皇太后がつくような事態を心配していた。

 敗戦。天皇退位論が盛んになり、もし天皇が亡くなった時は、本来ならば第二皇子の秩父宮が摂政になるべきだが結核の療養のため、第三皇子の高松宮が摂政となる可能性が高まっていた。もう一つは、皇太后が摂政になる可能性も残されていた。この頃、昭和天皇はこの退位問題で不安定な精神状態にあり、キリスト教(カソリック)の信仰に関心を持ち始めていた。皇后も皇太子の家庭教師ヴァイニングから週2回の個人授業を受けていた。著者は、天皇がキリスト教に接近した理由として、「宗教としての資格を欠くがゆえに破局を招いた神道をまるごと捨てて改宗することで、戦争責任と米国からの相対的自立ということの二つの課題にこたえることができると考えたのではないか。」と述べている。

 1951(昭和26)年サンフランシスコ平和条約の調印でこの国の独立の回復が認められ、極東国際軍事裁判で自らの戦争責任を問われることがなかったことから、天皇の抱えていた葛藤が消え、同時にキリスト教との接触も減ったのである。

 民間出身の正田美智子はキリスト教的な環境で育っていた。皇后良子や皇族妃の間には不満が内在していた。一方、天皇は美智子に好感を持っていた。1959(昭和34)年、皇太子25歳、皇太子妃24歳で結婚。著者は、真偽の定かでないエピソードを挟む。(P645)「皇太子妃美智子を最も憎んでいたのは、お見合いをしたこともある三島由紀夫であったろう。」と。

 最後に著者は、(P649)「皇后は自身の本意ではなくても、天皇性の強化に作用している。それどころか、カリスマ的権威を持った現皇后こそは最高の政治家である。もし皇后は皇后として十分な役割を果たさなければ、皇后に匹敵する有力な皇族妃が出てこない限り、象徴天皇制の正統性そのものが揺らぐことをも意味する。この仮定が決して荒唐無稽でないことは、近い将来に証明されるであろう。」「生まれる前からの皇后はいない。天皇とは異なり、血脈によって正統性が保たれていない皇后は、人生の途中で皇室に嫁ぎ、様々な葛藤を克服して皇后になることが求められる。」と結ぶ。

 現在の皇室の情況をみると、著者の最後の言葉は、大変残酷に響く。男系男子、一夫一婦制を前提とする限り、この制度の継承には生物学的な限界があると推測される。天皇制についての僕の見解は未だ煮詰まらないので他日を期すことにする。

 

 


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