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戦後左翼史 その45 1966年① 日共・中共関係決裂 

2017-06-11 15:47:02 | Weblog

国から北海道をしっかりと管理するために派遣されているとしか思えない高橋はるみ官選知事は、JR問題でようやく重い腰を上げた。5月25日、宗谷本線乗車! 乗ったのは、名寄から塩狩(和寒)まで。名寄―稚内間に乗らなかったのは、深い意味が込められていたのではないか。

 

戦後左翼史 その45 1966年① 日共・中共関係決裂 

1966年(僕11歳、小学校6年生、毎朝の職員会議に遅刻する担任と折り合いが付かず登校拒否を経験) この年に、国内外であったこと。文化大革命発動 ベトナム反戦運動

*(*は僕の考え)戦後左翼史を再開する。これまで(「その1」(1955年六全協)から「その28」(1965年))を総括すると、除名処分の乱発による異端の排除、それによる野坂-宮本体制の確立とまとめることができる。

(1)志田重男 1956.1.6中央常任幹部会員で書記局員志田(徳球派)が突然失踪 6.6常任幹部会「志田重男君同志についての発表」で公表 1956.9離党確認 1957.5.21除名

(2)椎野悦郎 1956.9徳球派最高幹部椎野の除名→これで徳球系主流派最高指導部の伊藤律(中国に幽閉)、志田、椎野を排除。

(3)学生運動急進派追放 「代々木事件(6.1事件)」 1958.6.1全学連第11回定期全国大会代議員グループ会議 香山健一全学連委員長、島成郎、森田実らを党規約違反として除名及び13人を党員権制限 トロツキストとして排除

(4)旧国際派の野田弥三郎、山本正美追放 9.21「第4回東京都党会議」

(5)「現代の理論」派追放 1959.9雑誌「現代の理論」廃刊 構造改革派の排除

(6)港地区党委員会追放(トロツキストとして断罪) 山崎衛、田川和夫、冬木ら3地区委員の資格剥奪を決定 1959.12.16に除名

(7)関根弘、武井昭夫 1961.4.12アカハタで、「さしあたってこれだけは」のアピールの発起人を処分

(8)長谷川浩処分 徳球系残存指導幹部

(9)春日(庄)派処分 春日(庄)ら構造改革派グループが集団離党 春日、山田六左衛門等7名を除名 1961.9.2大西、9.6針生、安部らを除名

(10)「新日本文学会」グループ処分1961

(11)旧東京都委員会グループ処分 1961野田、増田、山本、芝、西尾、武井ら6名 

(12)波多然とそのグループ処分 佐賀県の前中央委員1963

(13)親ソ派志賀グループ処分 1964鈴木市蔵、中野重治、朝倉、出、国分一太郎、佐多稲子、佐藤、野間宏、本郷、丸木位里、俊子夫妻、宮島、山田、渡部 ソ連派排除

(14)「4.17スト」 1964聴濤克己を統制違反で処分、幹部会員解任。竹内七郎を書記局員、労働組合部長解任 翌年聴涛変死

(15)神山、中野グループ処分 1964.8.23~27「第10中総」で神山、中野の党員権停止

 

(★印は日共関係)

1966.1.10道新夕刊 シェレーピン書記(ソ連) ベトナム支援協調 社会主義国が結束

1966.1.11道新 印パ首脳が共同宣言 ソ連首相の調停成功 平和的関係を回復 紛争開始時の位置まで両軍とも引き揚げ

1966.1.11道新 ソ連、アジアへ影響強める 紛争解決へ第一歩 コスイギンの斡旋でインド・パキスタン首脳会談 シャストリインド首相:印パ関係に貴重な成果 パキスタン代表団が声明:宣言では不十分

1966.1.13道新 中国、キューバの不和拡大 共産圏団結に影響か

1966.1.15道新夕刊 ソ連のハノイ外交成功 精神、物資、軍事完全援助で中国の影響力を排除 シェレーピン書記党内の地歩強める 

1966.1.15道新夕刊 プラウダ 中国に反論 ソ連をブルジョア精神で評価

1966.1.17道新夕刊 アジア・アフリカ・中南米人民連帯会議閉幕 反帝闘争への援助など決議

1966.1.20道新社説 日ソ貿易の具体的拡大を

1966.2.1道新 新段階に入るEEC 仏の主張認めて妥協 政治統合の道は遠のく

1966.2.22、23道新夕刊 論壇時評 寺沢一(東大教授)

(上)・加藤周一「現代中国をめぐる素朴な疑問」(展望):「北京政府が膨張主義的であるか」「今日の中国人のものの考え方は、中国の伝統的思想とどう関係しているか」周到な見分と検証

・一柳東一郎「保守独走下の政治」(朝日ジャーナル1.2号):党と官僚の癒着の上に築かれた保守党の体質

・松下圭一「選択をせまられる社会党―統治政党への道をめぐって」(エコノミスト1.25号):揺れる社会党の背景

(下)・日野一陽「日ソ接近への佐藤外交の狙い」(現代の眼)

・松下輝雄「ソ連政治の現実と展望」(経済往来):ソ連政治のダイナミックスの大要とソビエト・デモクラシーに特有な政治機構を解明

・力石定一「利潤概念導入の背景」(経済往来):リーベルマン方式導入の意味

・直井武夫「中ソ関係、激突か妥協か」(潮):1980中ソ条約期限までは「一種のパイプが通じているといえよう」

・荻原康則「コスイギン政権とソ連市民」(経済往来)

1966.2.3道新 人民日報 激しくソ連非難 中国包囲網に協力

1966.2.3道新 北朝鮮が回答(崔庸健最高人民会議常任委員会委員長) ホ―(北ベトナム大統領)書簡全面支持

1966.2.4道新夕刊 ソ連 各国へ“告発状”送る 中国と徹底対決か

★1966.2.4道新夕刊 日共 赤旗(2.4付)論文でソ連非難 「アメリカ帝国主義に反対する国際統一行動と統一戦線を強化するために」 2.3宮本書記長ら10人の幹部(*団長:宮顕、副団長:岡正芳、団員:蔵原、米原、上田、不破、工藤)が中国、北ベトナム訪問直後の決定

1966.2.6道新社説 ソ連軍縮提案の意義

1966.2.8道新社説 ベトナムをめぐる中ソ対立

1966.2.10道新 べトコン指導者の顔ぶれ (ポー・チ)・コン副議長 18歳から抗仏運動 (グエン・フー)・ト議長 傑出した知識人

1966.2 カストロ首相 中国を激しく非難 キューバ軍破壊図る

1966.2.14道新 北ベトナム援助会議(ワルシャワ条約機構) アルバニア拒否

1966.2.14道新 ソ連計画の国際党会議 ベトナム支援が主眼 後退する“中ソ対決”の線

1966.2.14道新夕刊 北ベトナム支援会議 中国、頭から無視 

1966.2.14道新夕刊 インドネシア 中国駐在大使(ジャウォト)を召還? 外交断絶へ一歩? 2.3在ジャカルタの中国大使館をデモが襲撃

1966.2.15道新夕刊 ソ連政府機関紙イズベスチアが論文 中ソ団結を協調

1966.2.16道新 のしあげてきた日中貿易 往復8億ドルをめざす 機械輸出3倍強も増加 

1966.2.22道新 人民日報 キューバに反論 “筋が通らぬ中国反対”

1966.2.22道新社説 最悪の事態招いた早大スト 授業料、入学期の値上げ 2.21警官隊の導入

1966.2.24道新社説 ソ連新5か年計画の問題点

1966.2.24道新 キューバ 対中国関係最悪の段階 全面的ソ連依存へ 援助なしには生きられぬ

★1966.2.25道新夕刊 人民日報 2.4付日共赤旗論文を掲載 中ソ共同を呼びかけ

1966.3.10道新 ハンガリー党機関紙 中国の強硬路線を非難 核戦争招く危機 暗にソ連の立場説明か 平和共存、人民解放同じ政策の両面

1966.3.15道新 キューバ首相 中国の挑発を非難 国交断絶も覚悟 放送でも非難演説 中国は反キューバ宣伝を展開している

1966.3.15道新 流動するアフリカ急進派(OAUアフリカ統一機構、本部アジスアベバ) 巻き返しをねらう ソ連、中国の出方も注目

1966.3.16道新 ソ連共産党大会めぐる東側陣営 静かな緊張感 ベトナム支援 中ソ分裂を警戒 焦点は中国の参加

1966.3.17、18道新 ユーゴの素顔 クロアチア、スロベニアの旅から ①頭の中は“東”腹の中は“西” たくみな平和共存 ②チトー亡き後に“不安” 経済矛盾が表面化

1966.3.22道新 近づいた第23回ソ連党大会 ベトナムなど微妙な友好国の動き 企業の自主性拡大 

(これまでの党大会の歴史)

第6回1917.8.6~16新党規約採択 この年に11月革命 

第7回1918.3.6ボリシェビキ党をロシア共産党と改称 

第10回1921.3.8新経済政策(NEP)採用 

第11回1922.3.27~4.2スターリン書記長に就任 

第14回1925.12.18~31スターリン一国社会主義政策採択 

第15回1927.12.2~19コルホーズ化決定 トロツキーら服従拒否 

第17回1934.1.26~2.10第2次5か年計画採択 

第18回1939.3.10~21第3次5か年計画採択 第2回最高会議1946.3.12第4次5か年計画採択 

第19回1952.10.5~14第5次5か年計画採択 

第20回1956.3.24~25フルシチョフのスターリン批判(秘密会) 

第21回1959.1.27~2.5 7年計画(59~65)承認 

第22回1961.10.16~31新党綱領 20年建設計画 共存政策確認 

第23回1966.3.29~ 5年計画(66~70)討議

 

1966.3.25道新社説 ソ連党大会と中国の不参加

1966.3.25道新夕刊 ソ連党大会 ブ第1書記が発表か スターリン再評価 アフリカ諸党も招く ソ連党筋報道 中共の不参加 発言公表拒否が理由

1966.3.26道新 ソ連新5か年計画の課題 生産向上に新方式採用 依然農業が難関

1966.3.27道新 迫るソ連党大会 ベトナム統一行動訴えよう 中国の“絶縁”に反論

1966.3.30道新 ソ連党大会 ブレジネフ報告 党内民主主義を強調 党規約改正を提案 幹部会は政治局に改組 “スターリン評価”ふれず ブレジネフ報告詳報 ベトナム 米の侵略危険な結果に 外国軍の撤退を要求 核禁止へ5つの措置

★1966.3.30道新 日共代表団 帰国の途に 宮本顕治書記長らは中国訪問を終え北京から広州へ

(*れんだいこHPに学ぶ)日共と中共の関係に亀裂発生

3.3~3.8北京で劉少奇副主席と会談。

3.21平壌で金日成と会談。共同声明に調印。

3.22~27北京で再度日中両党会談、共同コミュニケに合意。団長周恩来副主席。3.27ハノイでベトナム労働党代表団長レ・ズアン第一書記と共同コミュニケに調印。

3.28~29上海で毛沢東と会談。毛沢東が反米反ソ統一戦線を主張したため、北京で合意された共同コミュニケを破棄。この経過は、岡正芳の1966.5.4付け「理論部門担当幹部党員会議報告」によると、「毛沢東は、中米戦争必死論、ソ連軍浸入論を唱え、『その時、君達(日共)は中国を援助し、また君達自身の革命のために蜂起する腹を決めているのか』、『沖縄の党の勢力は幾らあるか、沖縄でゲリラ活動を起こすことを、日本の党は考えたことがあるか』と発言。

3.28毛沢東は、「資本主義復活の道を歩む実権派打倒」の文化大革命を発令。紅衛兵を全国的に動員。中国共産党は、代表団の帰国直後から、日共を修正主義と規定し、批判する大規模なカンパニアを開始。

4.4宮本党代表団帰国。4月党中央は、全党員に対して「教条主義との闘争」(対中国)を指示。第2回日中友好青年交流への不参加、名古屋.北九州での中国貿易展への非協力、中共出版物の不購買、赤旗の毛沢東選集の広告不掲載などが指示。

*宮本、野坂が権力と通底しているという疑惑は、伊藤律などからの情報により毛沢東は当然把握していたと思われる。日共との会談における毛沢東の武装蜂起発言は、宮本の革命に対する本気度を試したのではないかと推測する。これにビビった宮本は、以後党内の中国派を排除し、ソ連とも中国とも連帯しない(おりこうさん)自主独立路線に舵を切っていく。

1966.3.31道新 ソ連党大会 モスクワ市党委員会 エゴルイチョフ第1書記提案 書記長制復活

1966.3.31道新夕刊 ソ連党大会 北ベトナム代表(レ・ジュアン北ベトナム労働党第1書記)あいさつ ソ連援助に感謝 

1966.3.31道新社説 ブレジネフ報告の問題点

 

 


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