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〈私〉とはどのようなものか その1 舞台劇 北辰病院 砂粒 

2023-03-16 14:40:35 | Weblog

3月14日は、北海道日本ハムファイターズが新しいエスコンフィールド北海道で初めての試合(オープン戦)を行いテレビ報道などはこの話題一色に染まった。一方で同じ日に、日ハム移転後の活用として札幌ドームをカーテンで仕切り規模を小さくして使うという方策が発表された。この札幌市の明と暗を印象付けられても構わないというような公表タイミングのセンスの無さに驚いた。

 

〈私〉とはどのようなものか その1 舞台劇 北辰病院 砂粒

今年の春のテーマを「〈私〉とはどのようなものか」と掲げてこれから数カ月間考えてみようと思う。もちろん正解なんてない難問だろう。考える過程を楽しもうというものだ。

僕には子どもの頃からずっと消えないひとつの幻想を持っていた。それは、僕の見ているこの世界、僕の生きているこの世界は劇が進行しているのであり、僕はその舞台上にいるのだ。僕の周りの人たち、家族や友人、教師、街を歩いている人々など僕が見ている人たちはその劇の登場人物なのであり、見えている風景は僕の目の前だけに精巧に作り込まれた舞台セットなのだ。人々は、僕と接触している時だけのその人物を演じているのであり、僕が眠って居る時、いや僕が見るのをやめた瞬間には舞台裏に隠れその動きを止めているのだ。いざ僕が眼を覚まし活動を始めると、僕の意識がなかった間にもずっと活動を続けていたかのようにリセットした人物たちが舞台上に再び登場しているのだ。こんなカラクリ仕掛けの世界に自分は生きているのかも知れないという思いを完全に否定しきれずにいた。

それが、ちょうど20歳、虫垂炎で生まれて初めて入院を経験した時のことだ。そこは北1条通りに面した北辰病院。8月のある日の夕方、病棟の端っこの廊下の窓からぼんやりと外を眺めていると、沈んでいく夕陽の中で帰宅を急ぐ車や道往く人々を見ていたら、このまま自分がこの世界からいなくなったとしても、きっとこの世の中はいつもと同じように動いていくのだろうなと思った。それは、それまで抱えていた僕が世界の中心にいて僕が死んだら世界が終る。僕がいなくなった世界は存在するわけがないというかすかな幻想が消えた瞬間であった。

〈私〉とはどのようなものか

多くの人々の中にあって〈私〉はそのうちの一人であり、どうってことのないちっぽけな砂粒のような存在なのだろう。その考えをそれはそうだろうと肯定する自分もいるが、それではあまりにも虚しいではないか、せっかくこの世に生まれてきたのに、自分にとってはかけがえのない自分なのにと思っている自分もいる。

 


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