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太田昌国 『さらば!検索サイト』 その2 プロジェクト・フラ ソ連の北方四島占領を援助した米国

2020-03-14 16:19:33 | Weblog

ここにずっと書いてきた。福島はアンダーコントロールされているというアへ首相の噓から始まった2020東京五輪、IOCを賄賂で誘致した東京五輪、今や風前の灯である。幻の1940東京五輪。歴史は繰り返す。

 

『さらば! 検索サイト 太田昌国のぐるっと世界案内』(太田昌国著 現代書館 2019年刊) その2  

(2018.2.6)『ソ連の北方四島占領作戦は、米国の援助の下で実施されたという「発見」』(P77)から考えた。

『北海道新聞』2017年12月30日付け朝刊1面トップ記事に驚愕したことを記憶している。見出しは、「ソ連四島占領 米国が援助 艦船貸与、兵訓練・・・極秘合同作戦 45年2~9月 根室振興局で判明」というものだ。ソ連の北方四島占領を米国が援助し、極秘に艦船を貸与し訓練も施していたという報道である。

戦争終結時の国際情勢に対する認識について書き換えを迫るような歴史的大スクープだと思ったのだが、その後あまり注目されていない。今回、この話題を太田氏が取り上げていて何か救われた思いをした。

記事の内容である。1945年2月のヤルタ会談直後から共に連合国であった米ソは「プロジェクト・フラ」と呼ばれる合同の極秘作戦を開始した。それは、1945年5月から9月に米国がソ連に艦船(掃海艇55隻、上陸用舟艇30隻、護衛艦28隻など145隻)を無償で貸与、4月から8月にソ連兵12,000人をアラスカ州ユールドベイ基地で艦船やレーダーの習熟訓練を行い、北方四島占領作戦に参加したソ連の艦船17隻のうち10隻が米国からの貸与であったという事実だ。

根室振興局(北海道庁)が「北方四島遺産発掘・継承事業」において各国の資料にあたる中で、サハリン(樺太)およびクリール(千島)諸島上陸作戦に参加した軍艦リストを調査したロシア人学者の2011年度研究を発見した。また、米の元軍人リチャード・ラッセルが2003年に「プロジェクト・フラ」について書いているということだ。このプロジェクトについてはもっと背景を含めて知りたい。

 

(*僕の感想)僕の浅い歴史理解はこうだ。(誤っていたらご指摘をお願いしたい。)1945年2月に米(ルーズベルト)、英(チャーチル)、ソ(スターリン)の間でヤルタ会談が開かれ、ドイツ降伏90日後のソ連対日参戦が決定された。米国は対日戦争の早期終結のためソ連の参戦を望み、ソ連は戦後欧州における勢力圏を拡張したいという思惑を持っていたなど、米ソの複雑な利害が交錯した会談だったと思う。

5月8日ドイツ降伏。米国による8月6日(広島)と9日(長崎)の原爆投下は、ソ連のアジアでの勢力拡大に対して楔を打ち込むという意味を持っていたと理解している。9日(丁度、ドイツ降伏90日後)にソ連軍は樺太南部と千島列島に侵攻、28日から北方四島占領作戦を展開、9月5日にソ連軍により四島が制圧された。その間、15日にスターリンが北海道占領計画を提示しているが、トルーマン米国大統領はそれを撥ね付けている。同じ連合国内で同盟関係にある米ソが大戦後の東西対立を先取りするような動きをしていた。

話が脇道に逸れるが、スターリンの北海道占領計画は、留萌と釧路を一直線で結び、朝鮮半島のように分断した北海道の北半分をソ連が占領するというものである。(つきさっぷ資料館に地図があった。)歴史は紙一重のところで人の運命を左右する。私事になるが、当時、父は釧路で、母は函館に別々の国に住んでいたことになるので、釧路出身の僕は生まれていなかったはずだ。

僕の理解は概ねこのようなものだが、その米ソが後ろで手を結んでいたという事実が出てきたのだ。米国が支援をしていたという事実が明らかになったことから北方四島が一方的にソ連に占領されたという認識は改めなければならないだろう。まさに、ダブルスタンダード、2枚舌を駆使してきた米ソ間の現実を認識するべきだ。

現在の北方四島の問題を考えると、アへ首相がプーチンと何度も何度も交渉しても1mmも前に進まない現実がある。しかし、上記の歴史的な経緯を踏まえると、そもそも北方四島の帰属に対して米国の関与があったのだからロシアだけと交渉してもダメじゃないかと考える。また、ロシアの危惧が日米安保条約に基づいて米軍基地が作られることにあるのだから、日本が交渉するべきは米国ではないだろうか。大変な困難が想定されるが四島(アへは二島に譲歩してしまったようだが)が仮に日本の領土になっても安保条約の適用除外地としての担保を米国から取る必要がある。

(2018.12.4)「国境なき/国家なき『類的共同体』の未来像を幻視できる現場でもあった。」(P103)と太田氏は40年以上前の放浪で南米の国境を超えた際の経験を書いている。

僕は、国家、国民、領土、国境という概念から自由にならない限り世界中の領土を巡る問題の根本解決は難しいと考える。歴史を振り返ると、アイヌ民族をはじめとした北方先住民族が、蝦夷地と樺太、千島、カムチャツカのエリアを縦横無尽に往来していたことがわかる。つい最近、19世紀の半ばまでは国境など無かった時代があったのだ。国家の廃絶を構想することこそ究極の解決への道になると考える

 

 

 


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