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太田昌国 『さらば! 検索サイト 太田昌国のぐるっと世界案内』 その3

2020-03-30 13:42:03 | Weblog

今のキーワードは「翼賛」。「コロナという国難に当たっては、与党だ野党だと言っていられない。国民の命と健康を守るためにはあらゆる手段を講じる。」と。一番怖いのは、「思考停止」だ。皆があっちを向いたときは、こっちを向かなければ。鼻の効く政治家がこの事態に便乗して業界とつるんでいないか。例えば、製薬会社とか。

 

『さらば! 検索サイト 太田昌国のぐるっと世界案内』(太田昌国著 現代書館 2019年刊) その3 

①(2017.4.4)「『いつまで過去のことを言い募るのか』『左翼が負けた(ソ連崩壊)と思ったら、今度は植民地問題(韓国)か』(日本ナショナリストの)この『気分』は、状況的にいって社会に広く浸透していた」『現政権支持率の「高さ」の背景に、何があるのか』(P53)・・( )は僕の補足

(*僕の感想)日本ナショナリストの『気分』が、この国では嫌韓、嫌中として発露しており多くの国民の『気分』を代弁しているところがやっかいだ。太田氏はこの『気分』がこの国に特有のものだと捉えているのだろうが、世界を見渡せば各国でも同じようなナショナリストの『気分』がまん延している。では、打開の道はあるのだろうか。僕は、国家や国民を掲げた言説がもはや無意味だと思える思想が求められていると考える。

②(2017.5.9)「文在寅は、韓国軍の軍事力の強化を図ること。つまり(北)朝鮮国に対して軍事的に厳しく対峙する姿勢を堅持している。注目すべきは、それが、対米従属からに一定の離脱志向を伴っているということである。」『韓国大統領選挙を背景にした東アジアの情勢について』(P54)

(*僕)朝鮮戦争の継続、すなわち対米従属をあくまでも死守したいこの国と、朝鮮戦争の終結を展望して東アジアの中での位置取りを模索している韓国と、このどちらが本当の「未来指向」なのだろうか。この国の政治において、対米従属以外の選択肢を展望している勢力があるか。外交は与党の専売特許ではない。野党は、政府とは異なる様々なパイプを作っておくべきだ。以前 (2015.2.6)、「野党は外交で活路を開け」と書いた。

③(2017.8.25)「この日本では、瀬戸際の緊張感を利用して防空頭巾でミサイルから身を守りバケツリレーで飲料水を確保する戯画的な避難訓練をやらせる政治が横行している。」『二十一世紀初頭の九月に起こったふたつの出来事』(P115)

(*僕)21世紀に本当にあった怖い話だ。70数年前のアジア・太平洋戦争の時でさえも時代錯誤の笑えない話だったのに、再び繰り返された。子どもたちはそのナンセンスさをキッチリと見抜いているのだろうが、愚かな大人たちのやることに対して合わせざるをえないとすればかわいそうだ。面従腹背を学ぶ貴重な機会だったと理解すればいいのだろうか。

④(2017.9.12)「当時者性が希薄な人が、妥協なき強硬路線を主張して、事態をいっそう紛糾させてしまうということは、人間社会にありふれた現象だからだ。」『過去・現在の世界的な文脈の中に東アジア危機を置く』(P66)

(*僕)「妥協なき強硬路線を主張」というのは、正論であるからこそ怖い言葉であり全ての間違いの始まりでもある。それは、政治だけに限らず会社でも町内会などにおいても「人間社会にありふれた現象」だと実感できる。実は、妥協や譲歩する方が何倍もエネルギーを要するということは皆が知っているのに。僕が基本的に徒党を組むのが嫌いなのは、正論を主張する者がカッコよく見えて、ついそちらに流されてしまう中に自分を置きたくないからだ。

⑤(2017.11.7)「『山本作兵衛原画展』を見に行くとは、皇后もなかなかやるなーと私は思った。このような社会的『底辺』に関わる表現にまで目配りするとは、さすが皇后と思ったのである。この展覧会に来るという『見識』を持ちえるのは天皇ではなく皇后だという判断には、大方の賛同が得られよう。」『山本作兵衛原画展を見に来たふたり』(P70)

(*僕)太田氏がこのようなことを書くことに悲しみを覚える。皇族の行動の一部だけを切り取って賛意を示すことは、ことの本質を外した議論だと思う。

⑥(2017.12.6)「戦後『反戦・平和勢力』の国会における重要な担い手であった社会党議員が、対韓植民地支配責任を問う形での『戦後処理』を求めるのではなく、敗戦時に在韓していた日本人植民者が混乱の最中で彼の地に放置せざるを得なかった『財産』の回復・確保が締結すべき条約(1965日韓条約)に関わっての主要な関心であったことに一驚した。」『代議制に絶望して、おろおろ歩き・・』(P72)

(*僕)最近、吉田裕著『日本人の戦争観』(岩波現代文庫 2005年刊)を読んだ。アジア・太平洋戦争に対する日本人の戦争観には、自らの被害者性への偏りと、特にアジアに対する加害責任が決定的に欠落している。そういう前提で考えるとこの社会党議員の考えも不思議ではない。革新といわれた人たちにあってこのような感覚なのだから、この国がアジアからいつまで経っても信頼されないはずである。

⑦(2018.6.5)「(朝鮮半島情勢の中で)日本政府の主体的な姿はない。見えるとしても激変する状況への妨害者として、和解と和平の困難な道を歩もうとする者たちを押し止めようとする役割を自ら進んで果たす姿ばかりである。私たちは、韓国憲法が前文で同国が『三・一運動で建立された大韓民国臨時政府の法統』に立脚したものと規定している事実を想起すべきだろう。」『米朝首脳会談を陰で支える文在寅大統領』(P88)

(*僕)大韓民国の始源が抗日運動にあるとすれば、この国の始源は日本国憲法における平和主義、そしてアジア・太平洋戦争の対する反省にあるということになる。お互いの原点を確認しながらの付き合いは大変に辛いことだが、この国はそれだけのことをしてしまったのだ。

⑧(2018.11.6)「西欧起源の『国際法』なるものは西洋が実践した植民地主義を肯定する性格を持つとの捉え返しが世界的に行われている現状を理解しているはずもない日本国首相が『判決は国際法に照らして、あり得ない』と言えば・・」『東アジアにおける変革の動きと、停滞を続ける歴史認識』(P102)

(*僕)ピンずれ首相の発言には言葉も無いが、そうした人が最高権力者なのだから怖い、そして恥ずかしい。

 

 


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