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伊藤邦武他編 『世界哲学史3―中世Ⅰ超越と普遍に向けて』 アリストテレスショック

2021-07-21 08:53:15 | Weblog

ずっと疑問に感じていることがある。マイクロプラスティックによる海洋汚染が人間に害をもたらすので、レジ袋やストローをやめようという運動についてだ。分子(モノマー)を重合(反応)させてプラスティック(ポリマー)を作っている(例えば、エチレンが重合するとポリエチレンになる)が、そのプラが海の中で細かく細かくなったとしても、分子レベルにまで小さくなるのだろうか。レジ袋の欠片(プラ)を食べても人間に害はないはずだ。そもそも私たちの生活の中で数十年に渡って使ってきたプラの量は膨大であり、ストローを紙にしたくらいでどれほどの効果があるのか。調べてみたい。

 

『世界哲学史3―中世Ⅰ超越と普遍に向けて』(伊藤邦武、山内志朗、中島隆博、納富信留責任編集 ちくま新書 2020年刊)

 アリストテレスショックについて 

ローマ帝国では4世紀にキリスト教が国家宗教となった。教父アウグスティヌスが新プラトン主義にキリスト教的な解釈を加えた思考が西欧中世の知的世界を覆っていた。

十字軍による交流の結果、12世紀中頃西欧キリスト教圏にイスラム世界からアリストテレスの著作と註解書が入ってきた。イスラムでは10世紀半ばまでに彼の全著作が知られており、アヴェロエスは膨大な註釈を付していた。それまで西欧には、ローマのボエティウスがラテン語に翻訳し註釈を加えた論理学の一部しかなかった。

アリストテレス哲学はキリスト教とは異質であり衝撃をもたらした。「それ自体として完結したものとしての自然」という世界観は、キリスト教の「世界の永続性」とは相容れなかった。また、すべての人間にとって知性認識が生じる場である知性は数的に一つであるとする論理は、信仰の世界と矛盾した。

これに対して、従来のアウグスティヌス的世界観を固持する人々と、アリストテレス哲学を受容し神学との完全な分離を主張する人々の論争が生じた。トマス・アクィナスは、アウグスティヌス的思想、キリスト教、アリストテレス哲学の統合により事態を収めた。全てのものには原因があり、理性に基づいて論理的にその原因を突き詰めていくと、理性を超えた存在、「自存する存在そのもの」としての神に導かれることから、信仰は理性・論理よりも高い次元にあると考えた。

以上を「神学(信仰)と哲学(論理)」と構図的に捉えてみると、当時は「西欧の神学対イスラムの哲学」となり、私たちにイスラム世界の文学、医学、地理、天文学、数学などの進んだ文化力を改めて認識するべきとせまる。また、「信仰と論理」は、現代社会にも通底する課題であり、論理的と思っているこの自分も、場面によって何ものかに祈る、すがるという行為をしている。


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