晴走雨読

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〈私〉とはどのようなものか その3 主体性 自己責任 偶然 所与

2023-04-03 09:37:34 | Weblog

エスコンフィールド北海道が本格稼働した。プレイベントのコンサートをTVで視たが、大型ビジョンと音と光を駆使した演出効果は異次元に感じた。これを見た集客力のあるアーティストたちはエスコンでコンサートをやりたいと思ったのではないか。一方、考える時間が数年間もあったのに黒カーテンで半分に仕切ることしか思いつかなかった札幌ドームは、想定以上に大型イベントから見放されるのではないか。建設費の償還も続いているようだし、地下鉄東豊線の乗客数も減るだろう。失政のツケは膨らんでいく。

 

〈私〉とはどのようなものか その3 主体性 自己責任 偶然 所与    

(その2)では、他者が精一杯の自己表現を行っても私はその人のこと全てを知ることができない。逆に、私が知りえる限りの自分を他者にぶつけたとしても、私の全部を知ってもらうことはできないだろう。それは、私が私のこと全てをわかっていないためだろうと述べた。

(その3)私が私のことを自分で主体性を持って決めることができることと、偶然の結果として私のことが決められてしまうことがあると思う。私は1954年に釧路市で生まれたが、その時代にそこで生まれたことは自分で決めたことではない。20世紀の半ばに、世界の中の日本という名前の国で、ある男とある女(両親)の間に私が生まれてきたのは、偶然の積み重ねであり自分で選択できたことではない。

その後の私の成長過程にあっても、例えば高校や大学、就職など節目を振りかえって見ても、自分ではそこにあったいくつかの選択肢の中から自分で決めたと思っていることでも、その時の成績、成績も自分の努力だけではなく、自分の頭の構造、生来の能力、家庭や学校の環境、地域の情況など様々な所与の条件の中での選択だったと思う。

「〈私〉とはどのようなものか」と問うたとき、私はひとつひとつの選択に対して主体性を持って決断してきた自己責任を持った存在であるとともに、出自から始まる自分ではどうすることもできないような所与の環境の中で生きてきた存在である。私は、私自身で選択したことと与えられたことの二項対立の間で生きてきた存在といえよう。

 

 


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