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豊下楢彦 『日米安保70年の本質 外務省は何を隠蔽したのか』 昭和天皇 吉田茂 在日米軍

2021-09-20 15:34:59 | Weblog

現在の与野党ともに、日米安保条約の存続を前提としているため、この先この国が世界の中で、アジアの中でどのように振舞うべきかという議論ができない。自民党の総裁選挙においても、米国のポチとしての役割を見直すような主張も聞こえない。野党も同罪である。米国を相対化する視点、独自の外交ルートの構築などの気配さえ感じない。僕は野党の活路は外交にしかないと考えている。コロナ対策、福祉や教育などの内政課題はどれほどチマチマした政策を提案しても予算と権限を握っている与党にはかなわないのだ。

 

『日米安保70年の本質 外務省は何を隠蔽したのか』(豊下楢彦著 岩波書店『世界』2021年10月号) 昭和天皇 吉田茂 在日米軍    

周知の事実なのかもしれないが、僕としては本論文で初めて知ったのでノオトしておく。

「沖縄メッセージ」はよく知られた事実だ。1947年9月に昭和天皇は、米軍が事実上無期限に沖縄に駐留することを求めたメッセージを米国側に送っていた。それは、天皇が米ソ冷戦の深刻化で、ソ連と日本国内の共産勢力が手を結ぶ「間接侵略」によって天皇制の打倒が図られてしまうという危機感を持っていたためだ。また、(新)憲法9条が非武装を規定している以上、天皇制の防衛は米軍に依拠する以外に方法はないという情勢認識に立っていたからである。

さらに1950年6月25日、朝鮮戦争が勃発したことを昭和天皇は、北朝鮮の侵攻は天皇制打倒に向けた国際的な陰謀と見なした。そして1951年1月になると北朝鮮軍は韓国の南部まで侵攻した。天皇にとって、無条件的な基地提供によって米軍が日本の防衛にあたることが絶対的な要請になった。

(新事実!)1951年2月10日の米国大統領特使ダレスと昭和天皇の会見が行われ、ダレスが安保条約案について、米軍の駐留は日本側の「要請」に基づいて米国が施す「恩恵」であるとの「根本方針」を説明したのに対し、昭和天皇は「全面的な同意」を表明した。

この事実を僕は初めて知った。昭和天皇にとって天皇制の存続が至上命題であり、そのためには米国に沖縄を差し出し、さらに米軍による日本全土の自由使用を日本側から「要請」したのである。

 

ことの本質を掴んでいた吉田茂首相は、1950年7月29日の国会で野党の質問に対し「私は軍事基地を貸したくない。」と答弁していた。昭和天皇は、国会も政府の意向も無視した中で、いかなる資格と責任をもって「全面的な同意」を与えたのだろうか。1947年5月3日に施行された日本国憲法で、天皇は政治的行為を禁止されたにもかかわらず。

吉田首相は植民地的な基地貸与条約に苦しんだ。安保条約を結べば日本の主権侵害を許すことになるからである。米国側の意図は「我々は日本に、我々が望むだけの軍隊を、望む場所に、望む期間だけ駐留させる権利を獲得する。」「占領期と同様の米軍の特権を、独立を回復した後の日本においても全面的に享受する」ことだった。だから、吉田首相は「講和会議には出たくない。」「全権団は他の人に任せたい。」と抵抗した。いわゆる「全権固辞」問題である。

しかし1951年7月19日、吉田首相は、昭和天皇に「拝謁(はいえつ)した後」ようやく全権団を率いることに同意した。

そして、1951年9月8日、サンフランシスコにおいて2つの条約が締結された。異常なことに、対日講和条約は日本から派遣された全権団全員が署名したのに対して、日米安保条約は吉田茂首相だけの単独署名となった。「吉田後の政治指導者に責任を負わせたくないという配慮であった。防衛力のない日本の安全保障のため講和後も日本への米軍の駐留を認める条約については、吉田にも迷いがあったのである。」(引用『改訂版 日本政治外交史』御厨貴、牧原出著 放送大学教材 2013年刊 P108)

それから70年が経過した現在においても安保条約、日米地位協定の「全土基地化・自由使用」という本質は変わっていない。さらに近年は米国へのコミットが一段と進み、米国の国際的な軍事戦略にいかに貢献できるかが日本の外交・防衛政策の基軸におかれている。

 

 

 

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