晴走雨読

晴耕雨読ではないが、晴れたらランニング、雨が降れば読書、きままな毎日

四方田犬彦 『世界の凋落を見つめて クロニクル2011―2020』 ジョギング

2021-09-11 14:05:11 | Weblog

(政局)自民党総裁選、総選挙を通したこの国の最大の政治課題は、叩けば埃の出るアへの影響力を根絶することだ。総裁3候補がアへ詣でを繰り返し自ら傀儡政権になろうとしている。スガは曲がりなりにも検察を動かしてアへ封じを行った。ゆえに、人格攻撃を受け退陣となった。アへと距離のある、石破、2F、そして今は蚊帳の外の小池がどう動くか。煮え湯を飲まされ続けてきた野党も巻き込んだ政界再編はあるのか。

 

『世界の凋落を見つめて クロニクル2011―2020』(四方田犬彦著 集英社新書 2021年刊) ジョギング 

本書は『週刊金曜日』2011年5月27日号から20年12月4日号までに連載したコラムを中心にまとめられている。東日本大震災及び福島第一原発事故からコロナ禍までの10年間、著者が何を思い表現してきたのか、そして読者はその時何をしていて何を考えていたのか、回想しながら読むべき本だ。さて短く自分を振り返ると、会社生活→定年退職→第2の会社→病気→無業者生活(学生)となる。体力も10年前のフルマラソンからハーフマラソンに落ちて、一時はランニング休止、そして少し復活した今ということになる。

本書の中でも『週刊金曜日』2011日5月27日号に掲載された『ジョギングの社会階層』(P304)というエッセイは、グサッと突き刺さるインパクトのある文章だ。指摘が当たっていて思わず「痛い!」と発してしまう。

四方田氏は、ジョガーに「不愉快さ、居心地の悪さ」を感じるという。「ジョギングは社会階層的な性格を帯びた行為だ。それを行う人間に、否応もなくある階級への帰属を要求する。何を好き好んで、早朝や夕方に街中を走ったりするのか。危険から逃れるわけでもなければ、急ぎの用事があるわけではない。ジョギングは、自分が危険のない安全な生活を送っており、緊急の用事などないことを誇示するために行われる。」

ジョガーは「貧乏人でも金持ちでもない。その中間にあって、万事に小心で、几帳面で、カロリー計算だとか、『地球にやさしい』とか、意味不明の抽象表現を好む中産階級である。」

そして「それを誇示する。同時に恐ろしく鋭い経済感覚の持ち主である。なぜジョギングかって?それは、(富裕層の)テニスや乗馬と違い、タダなのだ。こうした認識は必然的にジョギング習慣者に差別的な特権意識を付与する。わたしは貧乏でも、愚かな金持ちでもない。わたしは健康的であるばかりか、聡明で、しかも合理的な精神を持った『小市民』なのだ。」と。

僕は30年くらい走っていて、周りの大方の人はそれを知っている。友人、知人に会うと「まだ、走っているの?」「凄いね!」「元気だね!」と言われ、それが自尊心をくすぐってくれる。頭ごなしに批判する人に出会ったことは無い。かつて20歳も若い人たちと仕事をしていて残業が続き苦しかった時も、俺はフルを走れる体力があるのだから、こいつらには負けないと自負を持っていた。走ることが自分のアイデンティティの一部になっている。

生きる支えとして思うのは、日共党員の人と話をしていると、この人は党に所属することなくして生きていかれない人なのだなあ、また周りの人からそう見られることで、人生を逸脱せず生きていくことができるのだろうと思う。

著者は、僕のアイデンティティに対して、不愉快とか、特権意識だと攻撃的にせまる。僕は、走ることにこれほどの否定的な言葉を受けたことがない。せいぜい関心がないと言う人はいても、真っ向から否定してくる人に会ったことがない。

違う話題だが、僕の友人はこう言った。「本なんて読まなくて済むなら読まなくてもいいんだよ。本を読まないと何かを考えることができない方が問題だ。本がなくても大事なことはつかめるし、まして本がないと生きていけないなんて言うのは重症だ。」彼は、大変な読書家である。

僕にとって読書の習慣もアイデンティティの一部になっている。考えるきっかけを本に求めていることが多い。相手の表情からその気持ちを察するとか、その場の雰囲気で自分の振る舞いを決めることなどは、生きていくうえで大事なことだとわかっている。しかし、僕はこれらのことに鈍感なのに、何か知識を多く持っているとか、人よりも考えが深いなどと勘違いしているのかもしれない。

66歳まで生きてしまって、自分というものがある程度わかった気になっていた。そこに、四方田氏の投げかけがあった。それをまだまだ自分を知ることが必要だと受け止めたい。

 

 

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