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『団地の空間政治学』

2012-11-08 20:28:10 | Weblog

 高知県馬路村、ゆずを町の特産品として産業化しています。地下歩道空間でゆずドリンクを販売していました。超酸っぱいです!

 

 『団地の空間政治学』(原武史著 NHKブックス 2012年刊) 

 「団地」には2つの意味がある。1950年代後半から60年代前半にかけて、首都圏や関西圏での住宅不足に対応するため、市営、都道府県営、公団営などの公営賃貸住宅群を表す場合と、それに遅れること10年、1970年代に賃貸住宅群とともに、一戸建て分譲宅地を面的に開発したエリアを表している。

 本書は、主として前者を対象としており、その中でも団地内における住民運動を詳しく分析している。特に私は、団地の歴史が日共の支持拡大の歴史と一致しており、所々に記述されている上田兄弟の日常活動に興味を持った。(後述する)

 読む前の私の問題意識としては、1970年代に開発された道内の「ニュータウン」、例えば、市営もみじ台、道営真駒内、大麻、北広島、その他、民間デベロッパーによって開発されたエリアが、40年を経過して、一斉に少子高齢化、人口減に直面していることから、道内より10年ほど早い首都圏などではどのような情況になっているのか、それらを知りたかったのだが、本書では残念ながらあまり記述されていない。

 「要求」のあるところに「運動」ありで、新興の住宅団地では通勤手段、保育所など生活上の問題が様々に発生したため、そこに移住してきた人々は自治会を結成し、要求実現の運動を行なった。

 

 上田耕一郎は、1952年西武新宿線の野方に住み党派にこだわらない幅広い平和運動を目指した中野懇談会を支えた。1960年から1965年まで松戸市の常盤平団地E街区に住んだ。1960年8月松戸市民の会が発足。その常盤平支部として11月に常盤平市民の会が発足しその会員となる。常盤平駅の隣の五香駅に近い五香地区の党責任者となった。1962年3月常盤平団地自治会が発足、7月自治会のE街区16地区の代議員となったが、自治会役員には選ばれなかった。その後3期続けて代議員として活動した。しかし、常盤平自治会を主導できず、党勢を思うように拡大させることができなかった。(1963年衆議院総選挙松戸市の共産党得票率は4%、国立町では10.2%)1964年3月からは共産党本部に勤めるようになり、通勤の便などから、1965年北多摩郡国立町(現国立市)の一戸建てに引っ越す。1974年参院選東京都選挙区で初当選。

 不破哲三(本名は上田健二郎)は、西荻窪の木賃アパートから、1960年1月から1969年まで北多摩郡田無町(現・西東京市)ひばりヶ丘団地(日本住宅公団住宅の賃貸住宅)に入居、1960年6月ひばりヶ丘民主主義を守る会を結成した。1961年5月自治会が発足したが、守る会からは自治会民主化と称して自治会役員に会員を送り込み、不破は広報部兼自治協常任委員となった。1964年3月からは共産党本部に勤める。1969年墨田区に引越し、同年の衆議院総選挙で東京6区から初当選。1970年書記局長になる。

 

 私も3歳から小学校3年生の途中までと、25歳からの数年間、道営住宅に住んだが、一戸建て住宅に比べて隣近所の濃いつきあいをさせてもらい、ある意味大変心強い暮らし方を実感した。

 

 

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