晴走雨読

晴耕雨読ではないが、晴れたらランニング、雨が降れば読書、きままな毎日

『瓦礫の中から言葉を』

2012-03-25 17:53:33 | Weblog

 『瓦礫の中から言葉を わたしの<死者>へ』(辺見庸著 NHK出版新書 2012年刊)

  当ブログとリンクしているRetriever Legend’s blogの2012.3.18「言葉と言葉のあいだに」で高く評価されていることに触発されて、晴走できず雪走、そして雨読(雪読?)した。

  3.11後、マスコミのみならず、政治、地域、教育などあらゆる領域で流布している言説への違和、「ガンバレ日本、復興、人と人とのつながり、絆・・」に対して、辺見は、「人びとは、本当は、もう一段、深い言葉を欲しているのではないかと最近、とても強く感じています。」(P21)と語る。

  Retriever Legend’s blogと同様にP179以降の文章は、不謹慎、ふとどきを超えており、巷の言説の中では異次元に属する位のベストだと思う。

  私は、「ゆで卵」「自動起床装置」以来の辺見ファンであり、近年抽象度の高い作品に付いて行けなくなっていたのだが、詩集『眼の海』(毎日新聞社)を単独で読んだ時には、あまり感じることができなかった詩も、本書の中で引用されており、その背景を含めて読んだ時、少し理解することができた。

  それでも敢えて辺見を批判したい。辺見は本書の中で主としてマスコミの画一的な言説を叩いてみせ、P169に出てくる堀田善衛を知っていた「若く暗い眼をした雑誌記者」が唯一の救いのように書いている。そこに辺見による決め付けがある。辺見の考えていることなど数多の記者たちは頭の中でわかっているのではないか。それを表現できないマスコミのおかれている情況に問題があるのではないか。辺見自身の過去に所属していた通信社時代はどうだったのであろうか。

  また、辺見の単独者としての自らの位置づけに、ただひとり自分だけが気付いている、自分だけが正しいという驕りはないのか。私は、昔から社会や時代の危機を叫び続けることに自己の存在確認を求めてきた左翼(自省を込めて)と同質のものを感じるのである。それほどまでに社会や時代は危うい存在だったのか。それなら、いっそのこと、軍国日本が敗戦で瓦解したように、廃墟になって、もう一度気付いて、再び始めた方が良いのではないか、と書くと、なんと最後は、辺見と同じ結論に至ってしまった。

  しかしながら、本書は、辺見により考え抜かれた非常に味わい深い言葉が溢れている。それも、難しい言葉を羅列するのではなく、読みやすさもある。2012年ベスト本になる予感。

 

 

コメント
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