晴走雨読

晴耕雨読ではないが、晴れたらランニング、雨が降れば読書、きままな毎日

『反原発の思想史』 その1

2012-03-03 21:25:06 | Weblog

2月は前半に体調を崩したり、週末の営業が続いたが、今週末は贅沢なことだが完全休養。ランニングも再開したい。厚い本を読みぬいた時も、長い距離を走りぬいた時も、共通の達成感を感じる。そこから次のエネルギーが生まれる。

 

 

 

『反原発の思想史 冷戦からフクシマへ』(絓(すが)秀実著 筑摩選書 2012年刊)

 

 原発については、このブログで2011.9.18『福島の原発事故をめぐって』(山本義隆著 みすず書房 2011年刊)をとりあげ、「私は、安易に後知恵で語るものを信用しない。今回の事態を基に技術に関わる者は徹底的に考えるべきであろう。特に、遺伝子や臓器移植、脳科学、クローン技術などの生命科学、原子力、核融合などエネルギーなどの先端分野では、安易に「人間に許された限界」(倫理や神)を設けるのではなく、人間と自然をどう捉えるかという観点から思索し続けるべきであろう。」と書いた。

 

本書の論理展開にはかなり荒いところがあり、また著者自身の考え方はあまり明確ではないが、「核」について考えるとき、1945年の敗戦時からの核を巡る運動史を振り返ることは有用であると感じた。1980年代くらいまでの運動史からは、反原発の歴史が自戒を込めて左翼の誤謬の歴史と重なっていることが良くわかる。

 

 以下本書からのノオトと*印は私のコメントである。

 

1945以降、GHQ占領下において核兵器反対は反米につながるという理由で運動できず。

1949ソ連核実験に成功

 

1953米アイゼンハワー大統領、原子力の平和利用を提唱→正力松太郎、中曽根康弘らにつながり日本における原子力発電開始へ、彼らには初めから核武装の思惑あり

1954米ビキニ環礁で水爆実験、第5福竜丸被爆、原水協結成

1954ソ連原子力発電開始

 米ソ冷戦下、社会主義勢力=平和勢力という幻想あり。*自称平和勢力はこの国では、革新(社会党、日共)につながる。

1956ソ連フルシチョフ、スターリン批判と平和共存路線の提唱

 中ソ論争開始、中国毛沢東主義による第三世界革命論の提唱、西欧合理主義・近代科学批判→ここに反原発思想の起源がある。

 

1964部分的核実験停止条約批准を巡って、日共宮本顕治は批准反対。*「中国の核実験による放射能は平和勢力のものだかららキレイな放射能」という奇妙な論理を展開。「いかなる国の核実験にも反対」派を除名、「原水協」から社会党系「原水禁」が分裂し結成

1966中国で毛沢東文化大革命、宮本日共は中国派を除名、「自主独立」路線へ

 *日共のこれまでの原子力政策は、平和利用(原発)に賛成、軍事目的(核兵器)への転用は反対というものであったが、福島の事故を経験の後、かつ浜岡原発停止決定後、2011.6.13志位提言において初めて「脱原発」へ路線を変更した。

1967米原潜エンタープライズ佐世保寄港阻止闘争、反戦運動(反核ではない)

1960年代新左翼運動の射程には反原発、反核は入っていなかった。

 

1970大阪万博の岡本太郎作太陽の塔は核エネルギーを象徴したもの

1970年代*各地域で反公害運動が展開されたが、その中から反原発運動が生まれた。

1975反原発全国連絡会議(西尾漠)

1976反原子力資料室(高木仁三郎)

1979.3米スリーマイルアイランド(TMI)事故

 

1982文学者反核声明(反原発は表明していない)これに対して、吉本隆明は『反核異論』で反核運動はソ連を利する運動と批判

1986チェルノブイリ事故

1980年代反原発公開ヒアリング阻止闘争、総評主導による労組動員型反原発運動

*その後労働戦線統一の過程で総評は解体されるとともに運動もしぼむ。

 

19902000年代反原発を主張していたのは、忌野清志郎、南こうせつ、スタジオジブリ、「宝島」文化など一部の文化人、科学者、地域運動に限られていた。

 

2011.3東日本大地震、福島第1原発事故の発生後、俄かに反原発主義者が溢れ出している。

*「不条理」ということを考えなければならない。

 

 

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