晴走雨読

晴耕雨読ではないが、晴れたらランニング、雨が降れば読書、きままな毎日

『子ども学序説』 その2

2009-03-06 20:30:27 | Weblog
 久々に夜の営業が無く、早く帰宅できました。外は、強い風雨です。一雨ごとに春が近づいています。

 「疎外された労働」を続けていると、内面に滓がたまってきます。それは、週単位で、季節単位で、年単位で、少しづつ違った形態で蓄積されていきます。

 時々、その浄化を試みます。汗をかいたり、旅をしたり、ひと様々でしょう。

 

 「PRIMO HITS」のナポリタン、シンプルですが、価格が安い割には美味しかったです。

 第2章 子どもの能力と無力

 1 能力と生活の織り合わせ
 「能力はそれを適用できる対象があってはじめてその力を発揮できる」「能力は固体内部で完結しない。能力はその対たる環世界とのかかわりにおいてはじめて意味をもつ。」

 「人は単独の固体としてその人生をはじめるのではなく、最初から他者の存在を予定したかたちで生まれ出、他者との振る舞いのやりとりのなかで育つ。」

 「能力がそれを使う生活とセットになって意味をなすというのは、マルクス的に言い換えれば、能力がその使用価値において働いているということである。」「ところが、何かと交換されるところに価値をもちはじめるという局面が、歴史上のある時点から現れる。」

 *物事の持つ2面性、使用価値と価値(交換価値)の分析は、マルクスに貫かれる弁証法的認識のコア、マルクス主義者浜田氏の真骨頂!

 2 人間の計画と個体能力論
 「人間が『明日』という観念をもち、明日にそなえることを考えはじめたとき、人間は自然の計画を越え、そこに、『人間の計画』を持ち込みはじめる。」

 産業革命後、「能力を用いて賃労働を提供することで貨幣を手に入れ、この貨幣を介して日々の生活の糧を得る。」

 同じく、「学校では、子どもが将来、貨幣を稼いで食うことのできる能力を育てることが目的となる。」

 *この一連の論理は、「疎外論」そのものである。資本主義社会では、人間の労働は、労働本来の喜びを無くし、労働力商品を売ることに目的が転化する。
 教育も、人間のもつ能力の全面的開花を目指すのではなく、資本にとって使い勝手の良い労働力になることを強いられる。現代の教育現場における矛盾、例えば、いじめ、詰め込み教育、体罰、校内暴力・・などの根本的な原因は、ここにある。

 第3章 「神のうち」から「ひとの世」へ
 「子どもたちは、ベクトルを外へ外へ広げ、次第に大きな世界を描いていく一方で、同じくベクトルが今度は内へ内へ向かって、そこで世界のうちに閉ざされてある小さな自己の存在にたどりつく。それは、自己意識の誕生。」

 1 内の世界が生まれるまでの前史
 「6歳にはじまる学校の基本的要請は、将来役立つと見込まれた知識・能力を得ること。」

 2 子どもたちの行方
 「人間は人の世界のなかで生きていると同時に、自然との物質代謝に支えられて生きている。」

 「子どもたちは自らの将来の労働力商品予備軍として育っていく。」

 *せつなさ、やるせなさ、青春の心の疼きは、この社会の矛盾を反映している。「ひとり」であることに自覚は、他者への意識、「ふたり」を意識するがゆえである。



 
コメント (3)
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