家近良樹先生の膨大な知識の中から書かれた著書だと思う。「高級な覗き見」だと思うが、覗き見たくなる人物である。
ふとっちょパパなど覗き見されても面白いものは何も無い。
家近先生が書く、徳川慶喜の心の動きなどは興味深い。
明鏡国語辞典の編者である北原保雄先生他により書かれた本。
押し付けがましくなく、しかも、勉強になる。
一番びっくりしたのは、「全然いい」の項。
ふとっちょパパは、会社の仲間に、「全然いい」というのは変だと、常日頃言ってきた。
しかし、それは正しい理解ではないという。「否定的な状況あるいは心配な状況・懸念をくつがえし、まったく問題がないという場合に用いるのが普通でしょう。」という指摘は、部下との会話を思い出すとそのとおりだ。
「それは、きちんと対応されているのか」
「全然OKです。」
執筆者の勤務する大学の学生が「<あなたが思っていることとは違って>という限定で使うのだと書いてあり、大変優れた着眼だと感心しました。」と書いてあるが、そのとおり。
これに代表されるような色々な事例が書かれており、興味深い。
池波正太郎さんの語り下し。
戦国篇、江戸篇、幕末維新篇と語られる。
昭和篇や平成篇には、語るべき人材がいるだろうか。ふとっちょパパは、問題にもならないが。
家族は別の用事があった。
アテンザを高速で走らせたかったのだ。
アテンザの踏み込みの感じがだいぶ分かってきた。3000回転以上で回すと調子も良くなりそうである。
浜乃納屋では、三色海鮮丼とカニの味噌汁をいただく。まずまず。ウニがもっと新鮮であればよかったのだが。カニの味噌汁はもう一つ。
偕楽園は、梅まつりにはあと一週間あるのだが、すでにだいぶ人がいた。広々として気持ちの良いところである。
弘道館は、あわただしく見る。
金龍菜館は、水戸黄門の食したラーメンを復刻したということであり、実はあまり期待しないで行ったのだが、意外においしかった。水戸藩ラーメンと餃子をいただく。
面白い味であり、おいしかったと思う。
池波正太郎さんをまた読んだ。昭和49年10月から1年間月刊「現代」誌上に発表された作品とのこと。ふとっちょパパが高校2年生である。解説の佐藤隆介さんが、「私のような四十男になってからでは、本当は手遅れなのである。だからせめて二十代のうちに、できることなら十代のうちに[男のリズム]を読んでもらいたい」と書いていらっしゃるがその通りのようにも思う。
東京下町の、貧しさの中の豊かさが伝わってくる。
日垣さんが、数万円の絵を購入することから画家が育つというような趣旨のことを書いていらっしゃるが、演劇、映画もそうであろう。
呑んだくれるのを止め、もっと気の利いたものに金を使わねば、「[死]への道程をつつがなく歩みきるために、動物は食べねばならぬ。」の言葉を上の空で聞いたことになる。
池波正太郎さんをまた読んだ。
どの作品も短いが、池波さんならではの文章である。
人生を充実させながら、おいしいものをいただいてみたい。
仕方ないので、TVの購入を検討。
今まで、29型の普通のTVだったので、本当を言うと、37型のワイドTVが欲しいところであるが、さすがに高い。
32型で妥協することとした。製品はAQUOS LC-32G300である。なお、300は限定商品。
購入は、街の電気店ササハラ電光社。
工事を伴うものはやはり、こういうお店が少々高いが、親切でよい。
既設のHDDレコーダー、サラウンドシステムとも、時間がかかったが、うまく接続してくれた。
ところで、「地上・BS・110度CSデジタルハイビジョン液晶テレビ」というのが、こんなに進化していることにあらためて感動。
パソコンとの融合を早く図る必要があるとの思いを新たにした。
ヒポクラティック・サナトリウムで有名な石原結實さんの本を初めて読んだ。
科学的に正しいのかどうかは分からないが、やってみようかなという気にさせられる。
後は実行あるのみ。
伊豆のヒポクラティック・サナトリウムを探してみよう。
「子どもが減って何が悪いか!ちくま新書 (511)」(赤川学著)を読み、「しかしながら、どうも理解が一緒にならないところは、「選択の自由」ということに最終的な価値を置くか否かのところにあるような気がする。日本の社会規範をどのように作っていくのかという基本のところで、自由からスタートするのか、ある一定の制約があるものと考えるのかだと思う。すなわち「善の構想」(望ましい生き方や人生設計)からの中立を要請する考え方には、ふとっちょパパは組することはできない。「善の構想」がなければ、そこには無責任しか残らないような気がしている。」と書いたが、その考えをきちんとした形で、論じているのが佐伯啓思先生の一連の啓発書だと思う。
中途半端な紹介はできないので、実際に読んでもらいたいが、「「自由」はさしあたりは、「個人の選択の自由」でよい。しかし、その背後にあるものを見なければ、とても「自由」を理解したことにはならないと思う。そして、この背後にあるものをあえて排除しようとした点にこそ、現代の自由の混迷があるといわざるを得ないのである。」(「おわりに」の本当に最後の部分)という指摘は、厳しく突き刺さってくる。
自由とは何か講談社現代新書
山井教雄さんの本により、初めて体系的にパレスチナ問題を読んだ。同時代的な問題として、興味を持ち新聞も読んでいたが、全く理解できていなかった。
まんが、とは銘打っているが、実は内容は濃い。
将来展望がもてないのが怖い。