チムどんどん「明石通信」&「その後」

初孫との明石暮らしを発信してきましたが、孫の海外移住を機に七年で区切りに。現在は逗子に戻って「その後」編のブログです

師走の散歩道で、興味深い仏像に

2023-12-18 22:05:45 | 逗子風物
12月18日(月)

 気温20度を超える、妙に生暖かい日もありますが、西高東低の気圧配置になれば、やっぱり冬空。

 日曜日の午後散歩。

 丘の上の葉桜住宅から反対側の葉山長柄方面へ下りて行くと、

 古墳のある丘陵も
  すっかり冬の佇まい
  

 いつもは逗葉新道の一本北側の道を歩くのですが、ちょっと気ままに、さらに一本北側の路地に入ってみると、逗子葉山の「湘南七福神」の一つの長運寺の前に出ました。七福神は「布袋尊」ですが、本尊は「不動明王」で、真言宗のお寺です。
 門の中を覗くと、山茶花だか寒椿だか、今年は夏が長かったのでうっかりしていましたが、すでに冬を彩る赤い花が咲いています。

 「どっちかな」と入って行くと、
  サザンカでした
  

 そして、もう一つの出会い。本堂へ向かう石段の手前に、面白い石像が立っていました。

 奈良の興福寺にある国宝「天燈鬼」。
  それを再現した石像
  


   鬼の眼に山茶花もある頼もしさ  弁人


 ところで、興福寺の国宝館といえば、「阿修羅像」が有名ですが、実は、ちょっとした訳があって、以前から「龍燈鬼・天燈鬼」の二体の仏像に興味を持っていたのです。

 というのは、私の実家の近くにある浅草下谷の吉原神社の境内に、この二体の石像が立っているからなのですが。

  こんな具合に
  

 いつの頃のものなのか、とにかく長い間、風風にさらされていたのを物語るように、表面はかなり傷んでいて、

 背面に回っても、
  銘文どころではありません
  

 その上、「龍燈鬼」の頭上・「天燈鬼」の肩の上の燈籠が消え失せていて、「その部分が金属製だったとしたら、戦時下の金属回収で持っていかれたのかも」とか考えたりしたのですが、関係者や近隣の古老に問いかけても、「近くの弁財天(60年ほど前に埋められた弁天池の畔にあった)の敷地から移されたのでは」くらいの話が精一杯で、結局、どれほどの歴史を背負っているのかも、石像としての文化財的な価値がどのくらいなのかも、全く見当が付かないのです。

 まあ、もともとの興福寺の国宝二体が運慶の三男の康弁作ということは、鎌倉時代初期となりますから、こういう造形物が古くからある民間信仰の「馬頭観音」や「道祖伸」などの石像群の中に見ることがないのはわかります。
 一方で、不慮の死が絶えない人間社会、お地蔵様の石像なんかは、いつの世も新しい需要があるのかもしれません。いかにも近年に造られたと思われるものもあって、石材店の店頭に、まん丸の可愛い石像が置かれていたりもします。
 ところが、そういう衆生救済という面で、今一つ需要をもたらさないのか、主役の仏さまの脇役だったためか、阿修羅像もそうですが、この鬼の像も、フィギアなんかでは一定の人気があるものの、本体以外の像を目にすることがほとんどなかったこともあって、吉原神社の石像のことが妙に気になっていたのです。

 さて、最初の長運寺の「天燈鬼」。どうも、とある方が亡き人の供養のために立てられたもので、それが十数年前ということですから、現代でも石工に頼めばできあがるということがわかります。
 葉山・鎌倉辺りにそういう石工さんがいるのか気になって、寺務所で尋ねましたが、住職さんがご不在で詳細は不明。どうも、この近隣ではなく奈良とか京都とか、西のほうの職人にお願いしたということでした。
 そして、「逗子の宗泰寺さんの前にもありますよ」という意外な言葉が。

 意外ですよ。以前、明石へ行く前に二度ほど門の中に入ったことはありますが、それは確かに昔の話。とはいえ、今でも車や散歩で門前を通ることは度々のことですから、「宗泰寺さんの前?どうして気が付かなかったのだろう」と不思議に思いながら、長柄からトンネルの中をてくてく、さっそく桜山の宗泰寺へ。

 ここも七福神巡りの一つ、大黒天が祀られている真言宗のお寺で、

 久しぶりに中に入ると、
  「万両」がお出迎え
  

 「宗泰寺の前」というのは、
  「本堂の前」ということでした
  

 なかなか立派な「天燈鬼」。今は亡き京都の現代仏師、永田晴山氏の作とか。見た目、銅製のようです。そもそも雨ざらしですから木彫りのはずはありませんが。


   年の瀬の人の世睨む鬼仏  弁人


 左の高札に説明がありましたので、特に、寺務所へ伺うことはしませんでしたが、近隣にちょっと散歩に出ただけなのに、たまたまとはいえ、二カ所で「天燈鬼」を拝することになって、なんとも不思議な散歩となりました。

 正直なところ、吉原神社の「龍燈鬼」と「天燈鬼」、「いったいどんな代物なのだろう」と少々期待していましたが、目の前に、現代の匠の手になるものが二体もあるということは、これまでの思いが少し甘かったのかもしれません。
 大事な文化財であることは確かでしょうが、仮に江戸時代の頃のものだとしても、その時代にはその時代の仏師や石工がいたはずで、活況を呈した吉原、お金持ちの遊郭の経営者くらいになれば、それなりの人に作らせることは、そんなに難しいことではなかったはずです。
 そういう人が、何かの目的のために奉納したか、誰かの供養のために建立したか、そんないきさつから残ってきたのかもしれません。



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