チムどんどん「明石通信」&「その後」

初孫との明石暮らしを発信してきましたが、孫の海外移住を機に七年で区切りに。現在は逗子に戻って「その後」編のブログです

大谷君の衝撃的なホームランと山川選手のコメント

2023-03-08 17:40:51 | つぶやき
3月8日(水)

 WBC、野球の国別世界大会、いよいよ明日始まります。

 まだ本戦前の、たかが強化試合とはいえ、一昨日6日の阪神戦で放ったオオタニ君の二打席連続ホームランには、一野球ファンの私もド肝を抜かれました。
 投げた才木投手のフォークも富田投手のストレートも申し分ない投球でしたから。

 テレビで見ていても、片膝を着くようにとか、右手一本でフォロースルーしたとか、二本目は芯を外しているとか、そのくらいは素人目にもわかりますが、それをホームランにする技術的なものについては専門家の分析に委ねるしかありません。

 その専門家の一人と言ってもいい、パリーグで3度のホームラン王に輝いている山川穂高選手のコメントがなかなか興味深かった。

曰く、
「マジで野球やめたいです」
「ふざけてますよ、すげぇというか引いたっすもん(笑)」
「あれは努力しても(自分には)無理でしょう」
「同じ競技やってるとは思えない」

 一見、いじけて、ふて腐れてしまったかのような発言にも聞こえますが、彼のコメントには、けた違いの選手への最高の賛辞と尊敬の念が込められていると思いました。

 実は、このコメントを聞いた時、私の脳裏に、ふと森鴎外の小説の一節が思い出されたのです。
 「寒山拾得」という小説なのですが、その中に次のような件があります。

「全体、世の中の人の道とか宗教とかいうものに対する態度に三通りある。
 自分の職業に気を取られて、ただ営々役々と年月を送っている人は、道というものを顧みない。(中略)しかし日々の務めだけは弁じて行かれよう。これは全く無頓着な人である。
 次に着意して道を求める人がある。専念に道を求めて、万事をなげうつこともあれば、日々の務めは怠らずに、たえず道に志していることもある。(中略)こういう人が深くはいり込むと日々の務めがすなわち道そのものになってしまう。つづめて言えば、これは皆道を求める人である。
 この無頓着な人と、道を求める人との中間に、道というものの存在を客観的に認めていて、それに対して全く無頓着だというわけでもなく、さればと言ってみずから進んで道を求めるでもなく、自分をば道に疎遠な人だと諦念め、別に道に親密な人がいるように思って、それを尊敬する人がある」

 簡単に言うと、
 人間が何かに取り組む態度は三通りあって、
 (1) 道を究めることに全く無頓着な人
 (2) 一途に道を求める人
 (3) (1)と(2)の中間人物

 そして、鴎外は
「尊敬はどの種類の人にもあるが、単に同じ対象を尊敬する場合を顧慮して言ってみると、道を求める人なら遅れているものが進んでいるものを尊敬することになり、」
と言い、

 さらに、
「ここに言う中間人物なら、自分のわからぬもの、会得することの出来ぬものを尊敬することになる。そこに盲目の尊敬が生ずる。盲目の尊敬では、たまたまそれをさし向ける対象が正鵠を得ていても、なんにもならぬのである」と。

 つまり、「真の尊敬の念というのは、(2)の『一途に道を求める人』の中で生ずるものであって、(3)の『中間人物』が抱く尊敬の念というのは、相手が相応の存在であっても全く意味をなさない」と断じているのです。

 なるほど、私なんぞは、どう考えても(1)や(2)ではありませんから、「オオタニ、スゲェ!」と叫んでみても、所詮「盲目の尊敬」の部類に過ぎず、したがって、思い通りの結果にならないと、「何やってんだ!」と呟いたりするのでしょう。

 しかし、山川選手のことばには重みがあります。鴎外の分類で言えば(2)の、その道に専念している人のことばで、その世界の中で、技術的に自分より確実にすぐれているところがわかっての発言ということになりますから。

 彼は翌7日の昨日、見事なホームランを打ち、その後のコメントで「人間じゃない人と比べないでほしいなと思います。僕は人間なので、人間らしく行きたい」と言ったようですが、このことばは、まさしく、オオタニ君は「規格外」「別次元」「超人」の域、「自分にとっては別世界の選手である」という表現で、彼に対する尊敬の念と賛辞を表したものだと思います。

 そして、もう一人、山川君同様、昨日やっとホームランの出た主砲の村上君も、昨年、三冠王に輝いて以来「村神様」と言われていますから、今のところ、今回の侍JAPANには、仲間から神様の域と認定される選手が二人いることになります。
 他にもダルビッシュ投手や佐々木朗希君とか、その聖域に入ってもおかしくない選手もいますが、山川選手を始めとする他の選手は人間の域の中で、その道(野球)に専念して、実力を発揮してほしいと願うばかりです。
「この方は神の聖域」と認定できる世界に身を置いて、一途に結果を追い求めていること自体、すでに価値があるのですから、


   球春や神と称さる猛者もいて  弁人


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