8月5日(金)
夏空の広島上空に現れた爆撃機B29「エノラゲイ」から原子爆弾「リトルボーイ」が投下されてから明日で66年目。
当時二十歳だった人間が86才になります。物心が付いて思い出が記憶に残るのは4才くらいでしょうか。だとすると、被爆体験を自覚しているいちばん若い人と言っても、70才ということになります。「最近、被爆体験を語る人が少なくなった」という話があっても不思議ではありません。
先日、広島の子どもたちの中に、「1945年8月6日朝8時15分」と正確に言える子が少なくなったと報じられていました。
まあ、仕方ないでしょう。現に私だって戦争体験はなく、若者にいくら戦争の悲惨さを説いたところで、体験に裏打ちされた説得力などほとんどないのですから。
それにしても、2011年のヒロシマの原爆の日8月6日を前にして、少々やり切れない気分の中で意気消沈してしまうのは私だけでしょうか。
今日は、今私の気分を陰鬱にする思いを正直に。
まず思うのは、あと60数年経った時、2011年に東北で起きた震災の体験と記憶はいったいどうなっているのかということです。
自然の脅威、とりわけ津波の恐ろしさは映像として残るでしょう。でも、その時70歳近くになっているKAZU君が、子どもや孫にいくら説明しても、戦争体験のない私と同じく体験者にはなり得ません。
現時点における被爆や戦争の体験の風化と同様に、それはそれとして仕方ないことかもしれませんが、困るのは、今から60年後には、どんなに仕方なくても決して風化させてはならないことがあるところです。そう、原発事故による放射能汚染との闘いです。
「未曽有の大地震」、「想定外の大津波」といくら弁明しても、原子力発電所の機能が完全に麻痺し、水素爆発やメルトダウンとかいう事態によって大量の放射性物質が拡散してしまったことは事実として受け止めざるを得ません。
その結果、日本人と放射能との新たな闘いが始まったのです。それも何十年、何百年、何千年と続く長い長い闘いなのです。
そして憂鬱なのは、そのやるせない闘いが、すべて昭和から平成へ股に掛けて生きてきた大人の責任だということです。
戦後の日本人は、結果としてヒロシマ・ナガサキで体験した放射能の恐ろしさを教訓として生かすことなく、「原子力の平和利用」ということばに踊って踊らされて、後世の人間に取り返しのつかない負の遺産を残してしまいました。そして、確実にその責任を果たすことなくこの世から去って行く私たち。
広島の原爆慰霊碑の「過ちは繰り返しませぬから」(※主語は自分たちを含めた人類)という碑文に対して、「アメリカが落としたのだから『繰り返させませぬから』でないとおかしい」などという狭い了見に寛容だったあまり、六十数年後に「過ちを繰り返してしまった」戦後の日本人。
どうにもやりきれません。
今年の夏は、ただただヒロシマ・ナガサキで犠牲になった人々に深く首を垂れるしかありません。
核廃絶脱原発誓ふ原爆忌 弁人
どこかに科学技術に対する自信と奢りがあったのでしょう。しかし、自然の中で生かされてきた人間が自然を手の内に納め込むことなどできるはずがないのです。そんな当たり前のことまで忘れてきた日本人、いや人類。
ここはやはり、貴重な教訓を残して行った過去の人々と、負の遺産を背負って行く未来の人々に対して、なんとしても反省の意を示さなければなりません。
そしてそのためには、速やかに原発を廃止すること。そして核を廃絶すること。反省の姿勢を示す唯一の道はそれしかありません。
でも難しいでしょうね。実は、原発の使用済み核燃料が核兵器の原料になる現実があるのです。そして、わが国には「いづれ自力で核武装しなければならない時が来る」と考えている人もかなりいらっしゃるようなのですから。
そんなことを考えていると、国際社会の中で、フクシマの現実を踏まえて、遅まきながら率先して核の世界から身を引くか、大量殺戮も辞さないのが戦争ということを前提に、国の安全保障のためには多少の危険は止むを得ないという姿勢を維持するのか、今は大事な岐路なのかもしれないと思ったりもします。
日本は民主主義の社会・国家(最近、少々疑問を抱いたりしますが)なのですから、次回の国政選挙の際は、ぜひとも、各政党・立候補者とも「原子力」に対する姿勢を明確にしていただきたいと思わざるを得ません。
最後に、昨年亡くなられた歌人加藤克巳氏の短歌を
-核弾頭五万個秘めて藍色の天空に浮くわれらが地球-
核兵器、今は少し少なくなったようですが、現在も地球を何十回も木っ端微塵にできるエネルギーが地中に埋まっているそうで。
それでも新たに作ろうとする人がいて国があるというのが現実です。
66年前を思い、66年後を憂う。そんな2011年の夏になりました。
夏空の広島上空に現れた爆撃機B29「エノラゲイ」から原子爆弾「リトルボーイ」が投下されてから明日で66年目。
当時二十歳だった人間が86才になります。物心が付いて思い出が記憶に残るのは4才くらいでしょうか。だとすると、被爆体験を自覚しているいちばん若い人と言っても、70才ということになります。「最近、被爆体験を語る人が少なくなった」という話があっても不思議ではありません。
先日、広島の子どもたちの中に、「1945年8月6日朝8時15分」と正確に言える子が少なくなったと報じられていました。
まあ、仕方ないでしょう。現に私だって戦争体験はなく、若者にいくら戦争の悲惨さを説いたところで、体験に裏打ちされた説得力などほとんどないのですから。
それにしても、2011年のヒロシマの原爆の日8月6日を前にして、少々やり切れない気分の中で意気消沈してしまうのは私だけでしょうか。
今日は、今私の気分を陰鬱にする思いを正直に。
まず思うのは、あと60数年経った時、2011年に東北で起きた震災の体験と記憶はいったいどうなっているのかということです。
自然の脅威、とりわけ津波の恐ろしさは映像として残るでしょう。でも、その時70歳近くになっているKAZU君が、子どもや孫にいくら説明しても、戦争体験のない私と同じく体験者にはなり得ません。
現時点における被爆や戦争の体験の風化と同様に、それはそれとして仕方ないことかもしれませんが、困るのは、今から60年後には、どんなに仕方なくても決して風化させてはならないことがあるところです。そう、原発事故による放射能汚染との闘いです。
「未曽有の大地震」、「想定外の大津波」といくら弁明しても、原子力発電所の機能が完全に麻痺し、水素爆発やメルトダウンとかいう事態によって大量の放射性物質が拡散してしまったことは事実として受け止めざるを得ません。
その結果、日本人と放射能との新たな闘いが始まったのです。それも何十年、何百年、何千年と続く長い長い闘いなのです。
そして憂鬱なのは、そのやるせない闘いが、すべて昭和から平成へ股に掛けて生きてきた大人の責任だということです。
戦後の日本人は、結果としてヒロシマ・ナガサキで体験した放射能の恐ろしさを教訓として生かすことなく、「原子力の平和利用」ということばに踊って踊らされて、後世の人間に取り返しのつかない負の遺産を残してしまいました。そして、確実にその責任を果たすことなくこの世から去って行く私たち。
広島の原爆慰霊碑の「過ちは繰り返しませぬから」(※主語は自分たちを含めた人類)という碑文に対して、「アメリカが落としたのだから『繰り返させませぬから』でないとおかしい」などという狭い了見に寛容だったあまり、六十数年後に「過ちを繰り返してしまった」戦後の日本人。
どうにもやりきれません。
今年の夏は、ただただヒロシマ・ナガサキで犠牲になった人々に深く首を垂れるしかありません。
核廃絶脱原発誓ふ原爆忌 弁人
どこかに科学技術に対する自信と奢りがあったのでしょう。しかし、自然の中で生かされてきた人間が自然を手の内に納め込むことなどできるはずがないのです。そんな当たり前のことまで忘れてきた日本人、いや人類。
ここはやはり、貴重な教訓を残して行った過去の人々と、負の遺産を背負って行く未来の人々に対して、なんとしても反省の意を示さなければなりません。
そしてそのためには、速やかに原発を廃止すること。そして核を廃絶すること。反省の姿勢を示す唯一の道はそれしかありません。
でも難しいでしょうね。実は、原発の使用済み核燃料が核兵器の原料になる現実があるのです。そして、わが国には「いづれ自力で核武装しなければならない時が来る」と考えている人もかなりいらっしゃるようなのですから。
そんなことを考えていると、国際社会の中で、フクシマの現実を踏まえて、遅まきながら率先して核の世界から身を引くか、大量殺戮も辞さないのが戦争ということを前提に、国の安全保障のためには多少の危険は止むを得ないという姿勢を維持するのか、今は大事な岐路なのかもしれないと思ったりもします。
日本は民主主義の社会・国家(最近、少々疑問を抱いたりしますが)なのですから、次回の国政選挙の際は、ぜひとも、各政党・立候補者とも「原子力」に対する姿勢を明確にしていただきたいと思わざるを得ません。
最後に、昨年亡くなられた歌人加藤克巳氏の短歌を
-核弾頭五万個秘めて藍色の天空に浮くわれらが地球-
核兵器、今は少し少なくなったようですが、現在も地球を何十回も木っ端微塵にできるエネルギーが地中に埋まっているそうで。
それでも新たに作ろうとする人がいて国があるというのが現実です。
66年前を思い、66年後を憂う。そんな2011年の夏になりました。