14年以上経っても、当時の事をふと思い出した
ように家内が話をし出すことが今だにある。
病気ということにおいては本人は被害者かも
しれないが、周りに対しては加害者である。
しかもその自覚というか、記憶が周りに
比べて格段に薄い。
深い怪我の傷が癒えても、傷痕が残り、
時に古傷が痛むこともままある。
いつまでも昔の話を掘り返してとか、
何度謝れば気が済むのかというのは、
いわば加害者の勝手な言い分である。
傷ついたものが、現実に痛みを感じて
いるなら、そしてそれが自身に帰因して
いるなら、その度に何度でも謝れば良い。
現に、そういう話になると、私は黙って
聞いている。その上で、済まなかったね
と謝り、支えてくれた事を謝す。
そしてまた、昨日と変わらない今日を
共に過ごしている。
償いでもなく、謝罪でもなく、
その痛みに寄り添うという事だ。
まして自分自身が与えた痛みである。
何度でも謝すれば良い事だし、
それが自身の回復の一歩一歩でもある。
目の前の痛みと苦しみに、寄り添う。
それに終わりはない。
終わらせたいと思ううちは、つまり、
加害者の勝手に囚われているうちは、
まだまだなのである。
ように家内が話をし出すことが今だにある。
病気ということにおいては本人は被害者かも
しれないが、周りに対しては加害者である。
しかもその自覚というか、記憶が周りに
比べて格段に薄い。
深い怪我の傷が癒えても、傷痕が残り、
時に古傷が痛むこともままある。
いつまでも昔の話を掘り返してとか、
何度謝れば気が済むのかというのは、
いわば加害者の勝手な言い分である。
傷ついたものが、現実に痛みを感じて
いるなら、そしてそれが自身に帰因して
いるなら、その度に何度でも謝れば良い。
現に、そういう話になると、私は黙って
聞いている。その上で、済まなかったね
と謝り、支えてくれた事を謝す。
そしてまた、昨日と変わらない今日を
共に過ごしている。
償いでもなく、謝罪でもなく、
その痛みに寄り添うという事だ。
まして自分自身が与えた痛みである。
何度でも謝すれば良い事だし、
それが自身の回復の一歩一歩でもある。
目の前の痛みと苦しみに、寄り添う。
それに終わりはない。
終わらせたいと思ううちは、つまり、
加害者の勝手に囚われているうちは、
まだまだなのである。
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