ALQUIT DAYS

The Great End of Life is not Knowledge but Action.

盛者必衰

2019年09月04日 | ノンジャンル
祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。

平家物語の冒頭で、学生時代に暗記させられた
ことも懐かしい。

平家物語は一応は軍記であるが、物語である以上、
そのテーマをひとことで言えば盛者必衰を根幹と
している。

その悲哀を諸行無常という言葉にも乗せ、セットと
なっているがゆえに、諸行無常自体が、厭世的な
意味あいで見られているが実はそうではない。

祇園とは、舎衛国の祇陀の園林である。
雨季に釈迦が滞在したその場所が後に
祇園精舎とされた。

鐘の声とあるが、梵鐘、つまり釣鐘的なものは
そこにはなかった。

盛者必衰とは、いわば生老病死である。

誰人も逃れられないその四苦に想いを馳せた時に、
釈迦は王子の身でありながら、袈裟(カーサ)
つまり当時の最下級の人達が身に着けていた
汚れたぼろ布を身にまとい、出家したのである。

釈迦は、その誰人も逃れられないということから、
誰人も平等であり、尊極の存在であると
したのである。

当時の身分制を維持していたのは、いわゆる輪廻
思想であり、宿業思想であった。

それを完全否定したのが釈迦である。

身分制や輪廻・宿業思想など、人間が作った
ものに過ぎない。そんなものは、普遍的なものでも
何でもないのだから、縛られる必要はない
というのが、諸行無常である。

森羅万象、一切において不変のものはないと
するなら、諸法無常である。

現在に至って、再び輪廻転生、因果応報、
自業自得などと人を縛るものに変遷し、
権力・財力に固執する宗教家は、供養だ祭祀だ
などと言っては、高位な袈裟を着たがっている。

この世で最も惨めな思いをしている人々の中に、
その人達と同じぼろを着て、飛び込んでいった
釈迦の、友なきものの友になり、家族なきものの
家族になるという教えは、とっくに廃れてしまった
かのようである。

それこそが、法の滅する末法というもの
なのである。