ALQUIT DAYS

The Great End of Life is not Knowledge but Action.

円融

2019年09月18日 | ノンジャンル
夜空の星影は過去である。

今見えるからといって、今あるとは限らない。
現在にあって、過去を見ていることになる。

また、新たに誕生した星の光も、目にすることが
できるのは、遠い未来である。

現在にあるものを、見ることができるのは
未来であり、見ることができた時は、
もうそれは過去のものとなる。

変わらない日々も、常に小さな生死の繰り返しの
中にある。代謝とは生死である。
つまり、生死一体の中で、より大きな生命活動が
維持されている。

そしてその大きな生命活動自体も、より大きな
活動においては一瞬である。

舞い落ちる枯葉を眺めて生死一体を想い、
星を真横に見る機内で、時空に想いを馳せていた。

つまるところ、ミクロであれマクロであれ、
世界の律動は円融ということになるのであろう。






秋感

2019年09月16日 | ノンジャンル
先週から韓国に出張で滞在している。

日韓関係で何かと喧しいが、現地では
むしろ法相がらみの話題の方が
喧々轟々としている。

ここ何年か、春と秋がすっ飛ばされる
ような気候だが、仲秋のこの時期に、
大きな満月を韓国で見るとは
思ってもいなかった。

休憩のひと時、樹々は枯葉をふらせている。
枯葉が舞い落ちる情景など、もう何年ぶり
だろうか。

久し振りに、秋らしい秋を、
この地で感じている。





自己中

2019年09月10日 | ノンジャンル
例えば友人が5人集まり、夏休みの計画を
立てるとする。

4人が海へ行きたく、1人が山へ行きたいとする。

4人は1人に海にしようと迫るだろうし、過半数を
超えている海派は、海に決めてしまう事もできる。

さてこの山派の1人。

日本なら、折れて、海に行くことに同意するだろう。
いわゆる察する、空気を読むという事だ。
ところが逆に、どうしても山へ行くことを
譲らない場合は、空気の読めない自己中という
事になる。

アメリカでは、この1人は、決して譲らない。
山に行きたいのが自身の本音であるから、
それを主張する。

主張した上で、妥協点を見つけるという事になる。
大抵の場合、今回は海にして、次回は山にしよう
という前向きな形で落ち着くことが多いが、
時には最後まで譲らず、その計画から離脱
という事もままある。

あるいは、山の素晴らしさを力説し、他の海派の
4人を説得して、山行きにひっくり返すこともある。

この場合、アメリカでの評価は、高い順に、
ひっくり返す、離脱する、妥協するとなる。

つまり、日本で自己中と低評価となるものこそが、
アメリカでは最高評価となるのである。

どちらが善いとか悪いとかの話ではない。
処変われば文化も習慣も常識も異なる。

そんなものに囚われて汲々とするより、どうせ
思い通りにならない事ばかりなら、思う通りに
生きて行けば良い。

他人を巻き込んだり、迷惑をかけるような
事さえなければ、自己中で良いのである。





空気を読む

2019年09月05日 | ノンジャンル
KYというのは、空気を読めるとも読めないとも
解されるのに、読めない否定的な意味で
使われている。

日本の察する文化では、空気を読むという事が
重要視されるが、要するに空気を読んで周りに
合わせられるという事は、本人にとっては別段
どうでもよい事なのである。

それが自身にとって、よほどのことであるなら、
KYと言われようが何だろうが、右に倣う事は
無いはずだからである。

断酒している身とはいえ、これまで多くの酒席に
出てきた。 冠婚葬祭もあり、接待もあり、
パーティーもありと、その酒席も多様であったが、
飲まないことが罪であるかのような空気に
さらされることも少なくなかった。

せっかくのお祝いの席で無粋なとか、供養のためと
思って一杯だけでもとか、俺の酒が飲めないのか
的な事もあった。

一杯くらいのお酒で、何がどうなるわけでもなく、
普段の仕事上ではむしろKYであってはならない
立場にある以上、口をつけても良かった
かもしれない。

一杯のお酒、一滴のお酒にこだわるような
こともなかったが、飲まないと決めた以上、
それが一杯であろうと一滴であろうと
同じであった。

そこは、もちろんどうでもよい事ではなく、
自身の生きるに直結した重大事だからである。

断酒に縛られるのでもなく、断酒に縋りつく
のでもなく、私の断酒は、生きるそのもの
なのである。

よって、飲まないについては、空気を読むことは
これからもないし、KYで生きるのみである。





盛者必衰

2019年09月04日 | ノンジャンル
祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。

平家物語の冒頭で、学生時代に暗記させられた
ことも懐かしい。

平家物語は一応は軍記であるが、物語である以上、
そのテーマをひとことで言えば盛者必衰を根幹と
している。

その悲哀を諸行無常という言葉にも乗せ、セットと
なっているがゆえに、諸行無常自体が、厭世的な
意味あいで見られているが実はそうではない。

祇園とは、舎衛国の祇陀の園林である。
雨季に釈迦が滞在したその場所が後に
祇園精舎とされた。

鐘の声とあるが、梵鐘、つまり釣鐘的なものは
そこにはなかった。

盛者必衰とは、いわば生老病死である。

誰人も逃れられないその四苦に想いを馳せた時に、
釈迦は王子の身でありながら、袈裟(カーサ)
つまり当時の最下級の人達が身に着けていた
汚れたぼろ布を身にまとい、出家したのである。

釈迦は、その誰人も逃れられないということから、
誰人も平等であり、尊極の存在であると
したのである。

当時の身分制を維持していたのは、いわゆる輪廻
思想であり、宿業思想であった。

それを完全否定したのが釈迦である。

身分制や輪廻・宿業思想など、人間が作った
ものに過ぎない。そんなものは、普遍的なものでも
何でもないのだから、縛られる必要はない
というのが、諸行無常である。

森羅万象、一切において不変のものはないと
するなら、諸法無常である。

現在に至って、再び輪廻転生、因果応報、
自業自得などと人を縛るものに変遷し、
権力・財力に固執する宗教家は、供養だ祭祀だ
などと言っては、高位な袈裟を着たがっている。

この世で最も惨めな思いをしている人々の中に、
その人達と同じぼろを着て、飛び込んでいった
釈迦の、友なきものの友になり、家族なきものの
家族になるという教えは、とっくに廃れてしまった
かのようである。

それこそが、法の滅する末法というもの
なのである。