ALQUIT DAYS

The Great End of Life is not Knowledge but Action.

呼び水

2011年01月19日 | ノンジャンル
人生おしなべて見ればトントンというが、これはおしなべて
見たときのことである。

常に平均的に良いこと、悪いことが起きるわけでもなく、
良いことばかり、あるいは悪いことばかり起きるのでもない。

ただ、平均していない以上、一定の間、続くということは
ままある。

恐いほどツキが良く、何もかもがうまくいくように思える
時もあれば、どこまで不運なのだと嘆かざるを得ないほど、
悪いことが続くときもある。

恵まれる幸運に、有頂天になるのは良いが、それが不運へと
転じた時には落胆も大きい。

逆に、不運に付きまとわれていても、それが幸運と転じれば、
大きな喜びとなるだろう。

いずれが幸か不幸かは別にして、良いことが起きた裏には
その過程が必ずある。良いことが起きた途端に、その過程と
異なる状況に陥るから、その良いことを悪いことへと
つなげてしまうのである。

良いことが起きるまでの過程を、良いことが起こった後も
変わらず継続していけば、多少の変動はあるとも大きな
落胆にはつながらない気がする。

有頂天になり、慢心し、驕りの心が生じたなら、それがすでに
悪いことが起きる原因となってしまっている。

逆に落胆し、嘆息し、悪いことしか起こらないのではないかと
絶望したなら、それ自体が、さらに悪いことを呼び寄せる
こととなる。

人というのは面白いもので、良いことがあったなら、
それを悪いことを呼び寄せる呼び水としてしまい、
悪いことがあったなら、それをさらに悪いことの
呼び水としてしまう。

一日断酒というのは、誠に地味で、地道なことである。
それを積み重ね、得ることができた良いことに感謝し、
さらに謙虚に同じ一日を繰り返していく。

慢心し、油断してスリップをしたなら、謙虚に反省し、
また地道な積み重ねを始めるのか、それをさらに悪い
自暴自棄へと持っていくのか。

いずれも、起こったことが問題なのではなく、
自分自身の問題であるということである。

石に躓き、転んでけがをした時に、いつまでも石の
せいにして愚痴り、石を恨み、痛い痛いと嘆いてばかり
いるのか、石に躓いた自身を謙虚に反省し、けがの痛みは
勉強代わりとばかりに立ち上がって前へ進むのか。

どうやら、良いこと、悪いことは避けられないこと
ではあるが、それをどう転じていくかは、やはりその人の
生き方の問題のようである。