ALQUIT DAYS

The Great End of Life is not Knowledge but Action.

目の前の一杯

2011年01月13日 | ノンジャンル

簡単に言ってしまうと、この病気はお酒を
やめられなくなる病気である。

アルコールによる部分的なマヒ状態にある脳では、
意志も理性もあったものではないし、抑制の力はない。

やめられないから、とりあえず止めてもらうしかない。
最も有効な手段は、専門医療での入院である。

そこで離脱症状と呼ばれる、いわゆる禁断症状を緩和し、
アルコールを脳や身体から抜き、常に欠乏状態だった
ビタミンや栄養素を摂取しながらまずは身体的回復を得る。

そして、病気の知識を得て、飲まずに生きていくか、
飲んで死ぬかを決める。

この、決めるということが最も肝要なのである。

生きていくなら飲まない。 死ぬなら飲めばよい。
誰に強制されることでもなく、自分で決めることである。

無論、この決めるということは飲んでいる時にはできない。
決めるのは自身の意志と理性と覚悟である。
それがマヒしている時に決められるものではない。

生きたい。 でも飲みたい。 いっそ消えてしまいたい。
そうした堂々巡りの、思考とも呼べないスパイラルの中で
飲むこと以外の行動ができない病気でもある。

自身の意志で、自身の生き方を決めるには、まず自身の
意志と理性を取り戻さねばならない。

その上でどう生きるかを決めるのは、他でもない自分の
意志である。

やめられない病気だから、やめるのだということは、
そういうことなのである。

抗酒剤にしろ、通院にしろ、自助グループにしろ、
自身の覚悟を常に新たにし、生きていくためにある。

己の覚悟の前に、言い訳は無用である。
目の前の一杯のお酒を飲むのか、飲まないのか。
それは、明らかに本人の意志の問題なのである。

ただ、残念なことに脳の委縮など障害が進行しすぎて
しまった場合は、自身の本来の意志を取り戻すことが
できずに、そのスパイラルの中で死を迎えるケースが多い。

生きるにせよ、死ぬにせよ、願わくはそこに自身の明瞭な
意志があれよかしと思うのである。