ALQUIT DAYS

The Great End of Life is not Knowledge but Action.

為と不為

2009年12月18日 | ノンジャンル
とかく人は、自分が他人の為にしたことはよく覚えて
いるくせに、他人が自分の為にしてくれたことは
忘れがちである。

同様に、他人から被った迷惑はよく覚えているくせに、
他人にかけた迷惑は忘れてしまう。

お金を貸したことはよく覚えていて、自分が借りたことは
忘れるというのは誠に勝手な話となるが、しばしば
金銭トラブルが絶えないところを見れば、借りっぱなし
というのが多いのであろう。

金銭的なことで言えば、個人レベルで貸すなら、
やってしまうつもりでいる方が楽である。
そのレベルでなければ、きちんと書類を取り交わして、
契約としておけばよい。

書類などと水くさいというのであれば
やってしまえばよい。
借りる側が水くさいと言うなら、これは論外である。
そもそも、本当に友人と思っている相手に、困っていても
金を借りようとは思わない。いや、それはできない。

情けは人の為ならずと言う。

自分が他人の為にしたことはさっさと忘れて、
他人が自分の為にしてくれたことをありがたいと
感謝し、それに報いようと努力する方が、
心豊かに暮らせる。

その報恩感謝の努力がまた、人の為にもなっていく。

誰しも、歳を取って自分の残り火が見えるように
なってくれば、何か社会に恩返しのようなことをしたいと
考えるのではないだろうか。

いい年をして、自分がどれほど他人に、社会に
貢献してきたかを誇ることほど、あさましい事はない。
自らが受けてきた恩恵を当然のこととし、自らが
献じてきた業績を特別とするなら、その品格は
下劣極まりない。

美しく歳を取るというのは、その人としての品格、
つまり心の豊かさが土台になければ、所詮無理な
話なのである。

願わくは、醜く歳を取ることのないようにと、
また年の瀬が近づくこの時期に思うのである。



紙一重

2009年12月16日 | ノンジャンル
失敗と成功ということについて言えば、ほんの紙一重の差で、
大きな結果の隔たりが生まれる。

十のうち、九の失敗と一の成功があった場合、九の失敗に
絶望するのと、一の成功に希望を見出すのとでは
雲泥の差である。

そもそもの見方の差は紙一重である。
九の失敗を見るか、一の成功を見るか。

十のうち、九の成功と一の失敗があった場合、
九の成功に自信を持つのか、一の失敗に
囚われてしまうのか。

これも紙一重でありながら、後には大きな差となって
現れることになる。

一の成功に希望を見、九の成功に自信を持とうではないか。
一の失敗に囚われ、九の失敗に絶望すれば、失敗を繰り返す
こととなってしまう。

人は一閃の光を垣間見ただけで、どうにでも生きていける
ものなのである。





七転び八起き

2009年12月15日 | ノンジャンル
七回転んでも、八回起きればよい。

七度転んでも、八度目に起きればよい。

これは回数を示す数字ではない。

何度失敗しても、諦めずに立ち上がる意であるが、
あえて数字にこだわれば、生まれて初めて立ち上がり、
転んでは立ちを繰り返せば、立つのが始めなので、
七起きではなくて、八起きとなる。

人生において、失敗はつきものであり、
むしろ失敗のない人生などつまらない。
人は失敗に学び、失敗して成長する。

だが、安易に同じ失敗を繰り返し、
また立ちがれば良いという考えは成長に繋がらない。
真剣な取り組みにおける失敗こそが、次に立ち上がった
自身を大きくさせてくれる。

真剣であればあるほど、失敗した時に受けるダメージは
大きい。だからこそ、また立ちあがる時の自身も
大きくなっている。

失敗、つまり転ぶことを先とすれば、七起きではなく、
八起きであることにこそ思いを馳せるべきである。

転んでただ立つのでは、元のままである。もうひとつ
上へ立つから、八起きなのである。

さて、同じ数字を使う言葉に、七転八倒がある。
この病気の真っただ中にいる時を、もっともよく表す
言葉である。七転び七起きをして、起死回生を得た身なら、
七転び八起きの、ことに八起きを肝に銘じねばならない。





わかちあい

2009年12月12日 | ノンジャンル
悲しみをわかちあえば半分に、喜びをわかちあえばニ倍に。

少々無粋だが、数字的に見れば、1の悲しみを分かつと
0.5の悲しみになるが1の喜びを分かてば、
それは分かつ相手にそのまま1の喜びとなる。

エネルギー保存から見れば矛盾するのだが、
実際にそうなのだから仕方がない。

その人にとっては、わかちあうことで1の悲しみが半分に、
1の喜びがそのまま相手にも分かたれることになり、
喜びが悲しみを凌駕する。

わかちあいがなければ、1の悲しみ、1の喜びで
トントンなのだが、一人ではこのトントンも難しい。

悲しみを凌駕する喜びがなければ、生きていくことは
難しい。だからこそ、わかちあいが必要で、それはつまり、
一人で生きていけるほど、人は強くないということである。

ところが、二人となれば、2の喜びと1の悲しみを
分かつのであるから、常に喜びが悲しみを凌駕する。

その分、人は強くなれるのである。

問題は、この真逆の関係である。
共依存というのはこの類であるが、1の悲しみを
そのまま分かち、1の喜びを0.5ずつ分け合ってしまう。

つまり、2の悲しみと1の喜びという、逆転した状況を
生み出してしまう。
この関係の根の深さは、1の悲しみを2としてしまう
ところにある。
互いに不幸であらねば成り立たない関係なのである。

この関係では一方が幸せになることは、関係自体の
崩壊となる。よって、互いに互いが同じ程度の
不幸さにあろうとする。

もちろん、一方が極端に他方よりもひどい状態になれば、
同等まで引き上げようと励ましもするが、それ以上に
持ち上げようとは決してしない。
バランスを取ると言えば聞こえはいいが、要するに
今の互いに同等な不幸のレベルを、互いに維持しようと
しているだけなのである。

これは、一般的に考えられている「わかちあい」とは
一線を画する。
だから「共依存」という言葉ができたのかどうか、
定かではないが、いずれにせよ、立ち上がろうとする
意志を互いに萎えさせ、共に立てない事で安心し、
一方が立ちあがろうとする事を最も恐れる。

立つ気のない二人がいくら励ましあっても詮無いことである。
人が支えあう、わかちあうということは、少なくとも自身が
しっかり自分の足で立っているか、立ち上がろうと
していなければ、まるで意味のないこととなる。