ALQUIT DAYS

The Great End of Life is not Knowledge but Action.

自立とは自律

2009年12月08日 | ノンジャンル
この病気は、コントロールを失う病気である。

理性を失い、責任と義務を放棄し、やりたいこと、
やらねばならぬこと、やろうと思うことが
何も出来なくなる。

制御を失い、ひたすらアルコールを求めて暴走する間に、
自身の健康を失い、社会的信用を失い、家庭生活を
崩壊させ、いずれは死に至る。

どこかで、この制御を取り戻す戦いを開始するきっかけが
なければ、残念ながら死は必定である。
アルコールを求めて止まない、もう一人の自身との
戦いである。これはかなり手強い。自分自身であるから、
あまりにも自分自身のことを知っている。

どうすれば飲んでくれるかを十分認識していて、
ありとあらゆる手段で飲ませようとする。
これと本当の意味で戦うには、理性でもって死を目の前の
現実として認識するきっかけがなければ難しいかもしれない。

結局は本人次第といわれるのは、そのあたりにある。
自律、つまり自身のコントロールを取り戻さなければ、
自立はあり得ない。
一年の断酒を経て、二年三年と軌道に乗る人は、全体の
患者数から見れば、実に寡少なのである。

大半は、健康を害し、突発的な症状で死ぬか、
酔って事故で死ぬか、衝動的に自殺するかという
最期を遂げる。
年間3万人を超える自殺者の中には、かなりの率で
依存症患者が含まれると思われる。

事故なのか自殺なのか判別できないケースが多く、
自殺とみなされる場合が多い。
私自身、あの時ベランダから転落していれば、
単に飛び降り自殺として判断されたであろう。

話は変わるが、たとえば母馬が、双子の子馬を
産んだとする。

生まれたと同時に立ち上がらなければ、子馬は
命を落とすことになる。

必死で立ち上がろうとする子馬を、
母親はその身体をなめたり、頬をよせて励ます。

それは、子馬が立ち上がろう、生きようと
しているからである。

初めから立ち上がれない子馬もいる。
それは生まれながらにして即、死を意味する。

2頭の子馬が互いに寄りかかりあいながら
立ち上がったとする。
彼らは立ち上がったものの、一歩も動けず、
やがて共に倒れる。
これを共倒れという。

互いに立ち上がろうと励ましあうならともかく、
ともに立つ気もなく、立てないことを愚痴りあい、
慰めあっているなら、本倒れである。

あるいは、一頭がもう一頭に支えられながら
立ち上がり、一方は支えられないと立てないと思い、
もう一方は支え続けないと自分も倒れると思うとする。
これを共依存という。

支えられる側が立ち上がる気を持ち、支える側が
しっかり立つなら、状況は必ず好転する。

自ら立てることを自覚していない、支える一頭が
疲れ果てれば、立つ気のないもう一頭と共倒れになるし、
自覚していればその立つ気のないものを
支えることをやめ、自身は生き延びる。

立ち上がれない子馬を立ち上がれるようにという
想いは母馬にはあっても、どうすることもできない。

まして時間は限られている。いつか立ち上がれるように
などと悠長なことは言っていられない。
その限られた時間が、生と死を決する。
立たねば、おっぱいさえ飲めないのだ。

限られた時間内に立ち上がって、母親の乳房に
吸いついた子馬は生き延びる。
仮に敵に襲われて命を落としたとしても、生きたことに
変わりはない。

立ち上がれなかった子馬には、ごく自然に死が訪れる
のみである。
生きるということさえできずに。。。

これを傍で見ているだけの人間のみが、
その子馬を担いででも立たせてやろうという
妄想に取りつかれる。
反対に、担いでくれと自らを子馬に投影して、
願うものもいるかもしれない。

自ら立たねば、生きることにはならないということを、
自然界は、有無を言わさぬ死という現実によって
我々に教えてくれている。

無論、教えるつもりなどなく、あるがままで
あるだけなのである。

生きるということに真に覚醒するためには、
死ぬということを一瞬でも垣間見る必要があるようだ。

その瞬間の、強烈な自身の生きたいという情念に
気づけば、人はいかなる環境にあっても、
再び立ち上がれるものである。

つまり、生きていけるものなのである。