ALQUIT DAYS

The Great End of Life is not Knowledge but Action.

わかちあい

2009年12月12日 | ノンジャンル
悲しみをわかちあえば半分に、喜びをわかちあえばニ倍に。

少々無粋だが、数字的に見れば、1の悲しみを分かつと
0.5の悲しみになるが1の喜びを分かてば、
それは分かつ相手にそのまま1の喜びとなる。

エネルギー保存から見れば矛盾するのだが、
実際にそうなのだから仕方がない。

その人にとっては、わかちあうことで1の悲しみが半分に、
1の喜びがそのまま相手にも分かたれることになり、
喜びが悲しみを凌駕する。

わかちあいがなければ、1の悲しみ、1の喜びで
トントンなのだが、一人ではこのトントンも難しい。

悲しみを凌駕する喜びがなければ、生きていくことは
難しい。だからこそ、わかちあいが必要で、それはつまり、
一人で生きていけるほど、人は強くないということである。

ところが、二人となれば、2の喜びと1の悲しみを
分かつのであるから、常に喜びが悲しみを凌駕する。

その分、人は強くなれるのである。

問題は、この真逆の関係である。
共依存というのはこの類であるが、1の悲しみを
そのまま分かち、1の喜びを0.5ずつ分け合ってしまう。

つまり、2の悲しみと1の喜びという、逆転した状況を
生み出してしまう。
この関係の根の深さは、1の悲しみを2としてしまう
ところにある。
互いに不幸であらねば成り立たない関係なのである。

この関係では一方が幸せになることは、関係自体の
崩壊となる。よって、互いに互いが同じ程度の
不幸さにあろうとする。

もちろん、一方が極端に他方よりもひどい状態になれば、
同等まで引き上げようと励ましもするが、それ以上に
持ち上げようとは決してしない。
バランスを取ると言えば聞こえはいいが、要するに
今の互いに同等な不幸のレベルを、互いに維持しようと
しているだけなのである。

これは、一般的に考えられている「わかちあい」とは
一線を画する。
だから「共依存」という言葉ができたのかどうか、
定かではないが、いずれにせよ、立ち上がろうとする
意志を互いに萎えさせ、共に立てない事で安心し、
一方が立ちあがろうとする事を最も恐れる。

立つ気のない二人がいくら励ましあっても詮無いことである。
人が支えあう、わかちあうということは、少なくとも自身が
しっかり自分の足で立っているか、立ち上がろうと
していなければ、まるで意味のないこととなる。