ALQUIT DAYS

The Great End of Life is not Knowledge but Action.

対等

2009年12月20日 | ノンジャンル
右の頬を打たれたら、左の頬を出しなさい。

土台、無理なことを強いれば、無理が重なる。

殴られたなら、殴り返す。殴ったなら、殴り返される。
これが対等の関係である。

単に、目には目を、歯には歯をの論理ではない。
殴るものは殴られる痛みを、殴られるものは殴る痛みを
知るべきだということなのである。

乱暴な例ではあるが、アル症というのは、殴った尻から
殴ったことを忘れていく。
ところが、殴られたことは過大且つ執拗に覚えている。

自分が殴ったことはどんどん忘れていくか、覚えてもいない。
だから殴られたことばかりどんどん溜まっていく。

今、自分を振り返るに、暴力や経済的困窮を招くような
ことこそなかったが、周りにどれほど心配をかけ、
失望させてきたかが、わかるようにもなってきた。

例えば裁判所で証言台に立つとして、その場にいる
誰であろうと、自分とは対等である。

だが、酩酊している証言者の言うことなど誰もまともには
聞かないし、その証言を証拠とできるわけもない。
至極当然の事なのであるが、当人は誰も自分を
相手にしない、自分の話を聞いてくれない、自分は独りだと
嘆き悲しむ。
周りを恨み、世間をのろい、自分を憐れみ、悲嘆の底に
暮れるのである。

何のことはない、この酩酊から醒め、まともになれば済む
話なのだが、この病気の厄介さは、それが極めて難しい
ことにある。その人によって、その人なりの底つき、
つまり酩酊から立ち直るきっかけがどうしても必要となる。

それは、現実的な死の恐怖か、自分以外の新たな生か、
人それぞれである。
私においては、自分を失う恐怖であった。

現実生活から全くかけ離れたサンクチュアリに生きれば、
苦もなく、悲しみもなく、不安もない。
その世界に誘われるまま、足を踏み入れかけていたのを
何とか止まらせたのは、何よりも自分自身を失ってしまう
恐怖心であった。

閑話休題

とまれ、人間は平等ではないかもしれないが、対等である
はずである。だが、この病気は、その対等であることさえ
失ってしまう。自ら失っておいて、それを殴られたと思い、
周りを責めたところで、すでに周りには誰もいない
ことにさえ気付かないのである。




上の写真は、正常な脳と、薬物中毒による萎縮した脳との
対比である。私が最も恐れていたのは、右側の
サンクチュアリ脳であった。
幸い、脳波、CT 、MRI 全て異常がなかった。
当時、その結果に、どれほど安堵したことか知れない。