「かたつむりより、雀がいいな。」
「釘より、金槌がいいな。」
歌詞の一節である。
さて、様々な状況でそれに適した教訓というものが
あって、状況が変われば教訓も変わる。
よって、ある教訓のまったく反意となる教訓も
自然に存在する。
「善は急げ」と言いながら、「急いては事を仕損じる」、
「急がば回れ」とも言うのである。
いずれもその状況においては正しいことであり、
事実、体験に基づいている。
すぐにやっておけば良かった。すぐにやって良かった
という状況と、慌ててやるべきではなかったという
状況とにおいて、いずれの教訓も体験に裏打ちされている。
「すぐに」と、「慌てて」ではまるで意味が異なるのだが
それは別の話なのでここでは置く。
体験によって得た教訓としてみれば、相反するものが
あっても何ら不思議ではないし、至極当然のこと
なのである。
だが、その人の生き方という面で言えば、ある程度の
選択が必要となる。相反することを同時に為していく
ことは無理だからである。
さて、自分を振り返り、これから先を考えてみるに、
どちらを取るか。少し例を挙げてみたい。
「石橋を叩いて渡る」よりも、「危ない橋を渡る」
「急がばまわれ」よりも、「電光石火」
「君子危うきに近寄らず」よりも
「虎穴に入らずんば虎子を得ず」あるいは、
「火中の栗を拾う」
「後は野となれ山となれ」よりも、
「立つ鳥後を濁さず」
「下手の横好き」よりも、
「好きこそものの上手なれ」
「おぼれる者はわらをもつかむ」よりも、
「鷹は飢えても穂をつかまず」
「果報は寝て待て」よりも、
「まかぬ種は生えぬ」
「蛙の子は蛙」よりも、
「トンビが鷹を産む」
「ドングリの背比べ」よりも、
「掃き溜めに鶴」
「ウドの大木」よりも、
「山椒は小粒でピリリと辛い」
「朱に交われば赤くなる」よりも、
「藍より出て、藍よりも青し」
例を挙げればきりがないが、そもそも生き方に
したところで、生々流転の中で変わらないものなど
ないはずである。
ただ、一貫してその底に流れる確かなものは
あると信じたい。
つまり、生きる上では「臨機応変」であって良いと思うが、
同時に、「首尾一貫」を持ちたいと願うのである。
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「釘より、金槌がいいな。」
歌詞の一節である。
さて、様々な状況でそれに適した教訓というものが
あって、状況が変われば教訓も変わる。
よって、ある教訓のまったく反意となる教訓も
自然に存在する。
「善は急げ」と言いながら、「急いては事を仕損じる」、
「急がば回れ」とも言うのである。
いずれもその状況においては正しいことであり、
事実、体験に基づいている。
すぐにやっておけば良かった。すぐにやって良かった
という状況と、慌ててやるべきではなかったという
状況とにおいて、いずれの教訓も体験に裏打ちされている。
「すぐに」と、「慌てて」ではまるで意味が異なるのだが
それは別の話なのでここでは置く。
体験によって得た教訓としてみれば、相反するものが
あっても何ら不思議ではないし、至極当然のこと
なのである。
だが、その人の生き方という面で言えば、ある程度の
選択が必要となる。相反することを同時に為していく
ことは無理だからである。
さて、自分を振り返り、これから先を考えてみるに、
どちらを取るか。少し例を挙げてみたい。
「石橋を叩いて渡る」よりも、「危ない橋を渡る」
「急がばまわれ」よりも、「電光石火」
「君子危うきに近寄らず」よりも
「虎穴に入らずんば虎子を得ず」あるいは、
「火中の栗を拾う」
「後は野となれ山となれ」よりも、
「立つ鳥後を濁さず」
「下手の横好き」よりも、
「好きこそものの上手なれ」
「おぼれる者はわらをもつかむ」よりも、
「鷹は飢えても穂をつかまず」
「果報は寝て待て」よりも、
「まかぬ種は生えぬ」
「蛙の子は蛙」よりも、
「トンビが鷹を産む」
「ドングリの背比べ」よりも、
「掃き溜めに鶴」
「ウドの大木」よりも、
「山椒は小粒でピリリと辛い」
「朱に交われば赤くなる」よりも、
「藍より出て、藍よりも青し」
例を挙げればきりがないが、そもそも生き方に
したところで、生々流転の中で変わらないものなど
ないはずである。
ただ、一貫してその底に流れる確かなものは
あると信じたい。
つまり、生きる上では「臨機応変」であって良いと思うが、
同時に、「首尾一貫」を持ちたいと願うのである。
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