ALQUIT DAYS

The Great End of Life is not Knowledge but Action.

積み木

2009年12月04日 | ノンジャンル
積み木を一つ一つ積むように、日々を重ねていく中で、
その積み方というものの大切さを感じている。

飲まない日の積み重ねは、一日断酒によってひとつひとつ
ということはだれもが実感していることであろうが、
なにがしかのきっかけでスリップし、また一から積んで
いくというのは、実はその積み方にも大きな要因が
あるのではないか。

同じように断酒を始めた人でも、日を追うごとにメキメキと
回復がその人の上に顕著に見える場合と、飲んでいなくとも
飲んでいた頃とさほど何も変わらないといった場合もある。

同じ一日を積み重ねているはずなのに、その積み木が
どんどん高くなっていくのを見れば、周りはそれを喜び、
本人ももっと高くと頑張ろうとする。

積み木をまず並べている人から見れば、日に日に差が
大きくなっていく気がして、焦燥感に苛まれる場合も
あるだろう。

だが、絶対ということはあり得ないので、仮にある時に
スリップしたとしよう。
ともかく、より高くと積んできた人の場合は、
ガラガラと全てが崩れ去り、文字通り、始めからやり直し
ということになりがちである。

ピラミッドのように、土台をしっかりさせながら積んでいく
人においては、その土台作りの日々は何も変わらないように
見え、そう評価されることも多いが、その積み重ねは、
盤石なものとなる。

仮にスリップしたとしても、そのあたりの部位のみが
崩れるだけで、そこ以下の積み上げたものには大して
影響がない。

つまり、また一からではなくて、そこから改めて
やり直すことができる。
同じスリップであっても、その影響は雲泥の差である。

当然ながら、我々は一杯の酒、一滴の酒にこだわって、
断酒を継続していかねばならない。

だが断酒継続は成果ではない。それをいつまでも
成果と捉えてより高くという志向にはまれば、
スリップの時に高転びに崩れ去ることとなる。

飲まない日を記録のように更新するのではない。
飲まないで生きる、行動する、思考する一日一日に
確実に足跡を残していくことなのである。

積んでは崩れ、積んでは崩れをしている間は、やはり
断酒を目的としてしまっているのかもしれない。
その達成は死である。最後まで飲まなかったという
ことだけを遺しても、それを周りがどう捉えるかは
別として、本人にとってはあまり意味がない。

飲む飲まないは別として、やはり本人にとって
重要なのはどう生きたのかということである。
飲めば死ぬ。ならば、飲んで死ぬか。飲まずに生きて、
己の為すべきことを為そうとする中で最期を迎えるか。

そのあたりの差が、スリップの後の、その人の状態に
これも如実に表れるのである。
高く積むことに執着するのか、なにかを為すために
一日一個の積み木をどう積んでいくのかを考えるのか。

砂上の楼閣を誇ったところで詮はないが
砂上とはいえ、ピラミッドがひっくり返ることは
ないのである。