ALQUIT DAYS

The Great End of Life is not Knowledge but Action.

選ばれしもの

2009年12月06日 | ノンジャンル
「我々は、神により選ばれしものなのである。」

歴史においても、今現在においてもしばしば耳にする
言葉である。事実、その意識の基に偉業を為したものも
いれば、大罪を犯したものもいる。

この「選ばれしもの」という言葉は、その極まりない
傲岸さに私が最も嫌悪し、同時にその笑止さに
呆れてしまうものでもある。

誰しも特別さというものを自身に、或いはその所属する
集団に求めたがるが、特別なるものは、特別でないものの
存在なくしてはありえない。
特別だけが存在すればもはや、それも特別ではなくなる。
あくまでも相対的なものであるという点では、
何も変わらないのである。

あるものにできる事を、他のものはできないかもしれない。
だが、そのあるものにできない事を、他のものは
できるのである。

「坂の上の雲」がドラマ化されて、放送され始めた。
明治の群像はどれも芳しい特別さを持っているが、
仮にその主立つ顔ぶれがいなかったとしても、その役割を
同じように果たしていたものが出ていたであろう。

働きアリの一割は何もしないでぶらぶらしている。
九割が一生懸命働くのを横目に、手伝おうともしない。
この一割のアリは、外的が襲来するなどの有事には、
真っ先に攻撃を開始して、命がけで敵の排除に努める。
いわゆる一番槍隊なのである。

仮に平時に、この働かない一割を排除したとしても、
残りの九割のうち、再び一割が働かなくなる。

自然界では、特別さというのはこういうことである。
人間だけが、「選ばれし」と大真面目に考えるとすれば、
これほど滑稽なことはない。

後の世に名を残し、崇められる人というのは、普通の
人としてこの世に生まれたのである。
特別さとは、外から与えられるものではなく、自身の
内面にあるそれが、具体的に開花したものであろう。

「選ばれし」という言葉に非常な違和感を覚えるのも、
そのあたりの考え方の相違を、際立って見せ付けられる
からかもしれない。

私は、ごく普通の人々の一人であるが、敢えて言うなら
私という特別さを持っている。それだけの話しである。