ALQUIT DAYS

The Great End of Life is not Knowledge but Action.

慣性

2008年12月15日 | ノンジャンル
自然の法則は、なにも物理学の世界だけではなくて、人の生活に
より密接に関わっている。
ただそれを何となく経験的に感じているだけで、法則として
捉えていないだけのことである。

慣性の法則というものを思い出してもらいたい。
物体が、その現在の状況を継続しようとする法則である。
静止していれば静止のまま、運動していれば運動している
ままであり続けようとする法則である。

つまり、静止しているものを動かそうとしたり、
運動しているものを停止させようとするときに
最も力が必要ということになる。

ここでは、動かそうとする、起動するときに最大の
エネルギーが必要とされる点に着目したい。
自転車をこぎ出すときに最も力がいることは経験上誰もが
ご存じであろう。動き出せば、比較的楽になる。

電車や自動車や飛行機など、機械的なものについては
すべて始動時や発進時に最大のパワーが必要となる。
これを起動力という。

さて、人間も同じで、朝起きて、一日の生活を開始する時に
最もエネルギーが必要とされ、中でも特に、休日明けの日の
朝は毎度のことながら最大限の起動力が必要である。
休止状態が長ければ長いほど、必要とされる起動力は
大きくなる。

ならば、その起動力が小さくて済むように、休日から
ある程度の慣らしをしておくことが有効だということは
明らかなのだが、いざ休日に入ると全停止の状態に
陥りがちである。

だらだらごろごろ過ごすよりも、ある程度の活動をした
休日明けの方が楽なのはこのためである。

夜は寝て、朝起きて、出掛けたり、掃除など家事をして
休日を過ごすのが、今のところ 自分にとっては最良なの
だろうが、時に夜更かししたり、夜中まで付き合いをしたり
ということがあると、途端にリズムが狂い、休み明けに
そのつけが回ってくる。

出来れば普段と同じペースで休日を過ごし、仕事前の日は
1時間ほど早めに寝るくらいがいいのかもしれないが
なかなかこれが難しい。

お酒を断つということについても、なにがしかの特別な
きっかけが必要ではあるが、実際上、絶ち始めの頃というのは、
最もパワーを必要とするときである。
その後の規則正しい生活のリズムと、飲まないで過ごす日々を
重ねていく中で、断酒継続も巡航航路へと繋がっていく。
この時点にまでくれば、断酒初めの時に必要だった
力の何十分の一ほどで継続が可能となっているのである。

話が逆となってややこしいのだが、断酒はつまり飲むことを
停止した状態である。
慣性の法則で言えば、起動力に対し、停止力、制御力という
ことが出来る。

ところが、これは完全な停止ではなく、常にウォームアップ
されている状態といえる。
完全な停止、つまり完治が可能であれば、再び適量飲酒に
戻れるかもしれないが、今のところそれは不可能である。

主電源が入っているテレビのように、リモコンのスイッチを
入れたなら即座に画面が立ち上がる。
我々も、たかだか一杯のお酒で、直ちにスイッチが入り、
依存症状が起動されてしまうのである。

要するに、発症の準備が万端で、アルコールのスイッチを
待つばかりの状態であるから、 起動にパワーを必要と
しないのである。
そして、いったん起動してしまえば厄介な事に、これを再び
停止させるにはどれほどのパワーが要るのかということは、
想像し難い。

制御力を取り戻したなら、それを常に発動し続けねば
ならない。
オートマ車のように、クリープ現象で自然に進もうと
するのを、常にブレーキを踏み続けて停止させて
おかねばならないのである。

断酒という停止をしたなら、自然にその停止状態のままで
いてくれたなら楽なのだが、慣性の法則とは逆に、
いつでも動き出そう、飲もうとする状態にあって、
常に制御の力を緩めることが出来ないというのは、
なんと厄介な病気であろう。

始めは必死で踏まなくてはならなかったブレーキだったが、
徐々に力を抜くことができ、いまでは足を乗せているだけで
止まっている状態になってきただけである。
無論、足を離せばすぐに動き出してしまう。

飲もうとし続ける慣性を継続的に制御し、一旦動き出して
しまえば、今度はその慣性によって再び停止させることが
非常に困難になることを思いあわせるべきである。

断酒継続によって変わることは、動き出そうとする力が
弱まることと、それに伴ってブレーキを踏む力も少しずつ
抜くことが出来るということである。

しかしながら、いくら弱まっても、その力が無くなる
ことはない。つまり、ブレーキから足を離すことは決して
出来ないということを覚悟すべきなのである。



2008年12月13日 | ノンジャンル
今年の漢字。一字で「変」だそうな。

確かに、変動、変革、急変、激変というキーワードが
一年を通じてあてはまる。

自身にとっても、「大変」な一年であった事は間違いない。
1月に韓国へ会社の慰安旅行へ行ったのが
つい昨日のようである。
本当に来る年、来る年、めまぐるしく過ぎ去っていく
感じがする。

オリンピックが終わり、後半に入ってから、文字通り激変を迎え、
予想だにしなかった年末を迎えようとしている。
自身を振り返れば、不甲斐無い一年ではあったが、
反省が出来たり、来年に向けてそれを改めていこうと
考えられる余裕があることに感謝しなくてはなるまい。

この年末を、来年の生活をどうしていこうかと悩み苦しむ人が
どれほどいることか。
決して他人事ではないのである。

自身にとって、何が良くて、得であるか、何が悪くて、
損であるかを理性はしっかりと認識し、判断し、予想している。
問題は、実際に移される行動には、それが反映されるとは
限らない事である。
むしろ、理性の力が及ばない情念に、より左右されている。

それが人間味でもあろうかと思うが、どうも自分は、
理性的であろうとし過ぎるきらいがある。
断酒して常にしらふでいることも多少影響している
かもしれない。

今は申し訳ないようだけれども、一年の終わりを迎えるに
あたり、ラストスパートの後、少し気を抜かせてもらって
また新たに仕切り直しとしたい気分である。

今回の年越しは、様々な意味で「変」の節目としたいと
考えている。



待つ余裕

2008年12月10日 | ノンジャンル
運転免許をお持ちの方なら、教習時代に学んだ事を思い出して
もらいたいのだが、信号が青の時は、「進め」ではなく、
「進んでも良い」である。

黄色ならば、「止まれ」であって、「注意して進む」ではない。
但し、急ブレーキなど、危険な操作を必要とする場合、
停止線を越えて、交差点内にある時などは、例外として、
そのまま通過することが出来る。
「止まれ」である以上、自車及び後続車が安全に停止できる
のであれば、停止しなければならない。

大阪では、青は「どんどん進め」、黄色は「可能な限り進め」
である。
安全に停止できる状態で、黄色信号で停止などしようものなら、
後ろからクラクションを鳴らされる。
いわゆる、黄色から赤に変わる微妙なところを含めれば、
信号無視はかなり多い。

明らかに赤信号を無視するのは論外として、この変わり目に
ついてはその認識に個人差が大きく、警察とのトラブルも
絶えない。

たかが一つの交差点を越えられるか越えられないかの違いは
実は大したことではない。
確かに信号待ちの異常に長い交差点もあるのだが、ある程度は
連動しているのでそこを越えても次の信号で待つことになり、
平均すれば大差ない。

これは多分に心理的な要素が大きく、電車に駆け込み乗車する
のと同じで、待つ=時間をロスする=損をするという、
せっかちな人に共通する強迫観念的なものが働いている。

私から見れば、性急にバタバタと動いている人はかえって
無駄が多く、その分ロスが大きい。
じたばたするのと、てきぱきするのとでは雲泥の差がある。

さて、信号が黄色に変わった時点で、止まることを前提に
している人は、後続車に配慮しながら、止まれるかどうかを
判断する。
進むことを前提にしている人は、条件反射的にアクセルを
踏み込み、赤に変わるまでに交差点に進入しようとする。
この「待つ」ことができないせっかちさが、往々にして
事故を招く。事故を起こせば、その損失は計り知れない。

たかだか数分待てば済むことが、事故を起こせば取り返しの
つかぬことにもなりかねない。
安全運転で、無事故であることが第一であることなど
誰もが承知している。
にも拘らず、事故が絶えないのは、精神的にも身体的にも
余裕がないからである。

歩行者の立場でもよい、自転車やバイクに乗っている
立場でもよい、車を運転している立場でもよい、
一度冷静に、信号が黄色に変わった時の自身の心理的作用や、
反射的行動について観察してみてはどうであろう。
無意識で、気づきもしていなかったことが見えてくる
かもしれない。

そもそも、免許というものは、してはいけないことを
することを許可するものであって、そのための知識なり、
技能なりを修得した、資格のあるものに下りるのであり、
その資質において欠格とみなされたなら下りないのである。

師走に入り、否が応にも気ぜわしく、慌ただしい時期である。
過ちを犯さず、てきぱきと物事を進めていくには、
何よりも余裕が大切だということを肝に銘じて
おきたいものである。



冷たい一日

2008年12月07日 | ノンジャンル
寒いというより、刃物をあてられているような、
冷気を感じる一日となった。
こういう痛い冷たさは、ぞくぞくする寒さよりは苦にならない。

淀川に面した北の玄関は風でドアも開けにくくなっている。
夏場は川風が通って、エアコンも要らないくらいだが、
冬場は風が強すぎる。

南向きのベランダは穏やかで暖かく、部屋の位置によって
寒暖の差が大きい。

風と空と雲と、川は季節毎に様々な色を見せ、
移り変わっていく。

今年もいつのまにか冬の色となってきた。

宵の空を仰げば、金星と木星が輝いていた。

ピンぼけの無い、抜けるような冬の星空は心を透明にする。




グラスを傾ける

2008年12月06日 | ノンジャンル
昔、あるクラブで客が酔っているかどうかを試す遊びで、
水割りの入ったタンブラーを100円硬貨のゼロの上で
45度に傾け、そのまま立たせるという事をしていた。

集中すればするほど、変に肩に力が入ってうまくいかない。
そのうちにだんだんと疲れてくる。

少し飲んで、気分的にリラックスし、心身ともに少し力が抜けた
ところで、再び挑戦してみると、存外にうまくいく。

この多少飲んでうまくいく事というのは、結構ある。
精神的にがちがちの状態よりは、リラックスしているほうが
持てる力を十分発揮する事が出来る。

思えば、このリラックス状態を得る為にお酒を飲む人も多い
かも知れない。

だが、飲めば普段よりも力を発揮出来るということは、それが
習慣になれば、飲まないと発揮できないという事につながる。
本来は、持たない力を発揮する事は出来ないのだから、
持てる力なら飲まずとも、発揮出来るはずであり、その方法を
模索すべきなのである。

飲むという安易な方法に頼り出せば、飲まないと出来なくなり、
次第にいくら飲んでも出来ない状態になっていく。

断酒は、飲まないと出来なかった事を、飲まずに出来るように
していくことでもあるから、これは非常な困難を伴う事には
違いない。断酒を継続していながら、生き辛さを感じている人が
多いのも仕方の無い事であろう。

何事も一朝一夕に出来るようになるわけではない。
時間も掛かるであろうが、ともかくも一つ一つ、焦らずに
努力していく他は無いであろう。

とりあえず、今、グラスを立たせる事は素面で
出来るようになった。