ALQUIT DAYS

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HLA

2008年12月02日 | ノンジャンル
HLAというのをご存知だろうか。

通常、血液型は赤血球において、ABO式にて区別されるが、
HLAというのは、白血球あるいは血小板の抗原(血液型)
として発見され、血液にとどまらず自他認識の
マーカー分子として機能している。

つまり、自分と他を区別し、体内にウイルスなど
「余所者」が侵入すればこれを攻撃し、撃退しようとする
抗原であり、輸血、臓器移植などにおいては特に問題となる
固体特有の免疫物質でもある。

何も医学的な話をするわけではないので詳細は省くが、
要するに自分と他人や、外界を区別している主要な
要素である。
区別するということは、他との違いを認識し、
他との類似性をも認識するということである。

人間は、他者を区別して認識するとき、本能的に類似性を
ベースにしているか、相違をベースにしているかの
いずれかではないかと思うのである。

肉親に対する愛情は、この類似性をベースとしており、
友人、恋愛感情などは、相違をベースにしているように
思える。
ややこしくなるので、ジェンダーの相違はここでは
無視することにするが、HLAによって認識される相違は、
前向きな精神においては自己に無い優れた面と
捉えるであろうし、停滞した精神においては拒絶という
形で終わるであろう。

DNAレベルでは、本能的に自己保存、つまり種の保存
というプログラムがあり、その目的のためには、
常に優れたDNAを無意識に求める。
あんな美女が、なぜあんな野獣とということも大いに
あるわけなのだが、これは本能的なレベルからいえば
ごく当然なのである。

簡単に言えば、背の低い人が背の高い人に惹かれ、
痩せた人が肥った人に惹かれ、美しい人が、粗野な人に
惹かれ、繊細な人が、磊落な人に惹かれ、またその逆の
場合も含めて、自己と他を区別し、相違を認識するが故に、
その相違に惹かれるのは、至極当然であるということだ。

肉親間に見られる類似性においては、本能的な安心感の
中に存することができるが、相違というものには、惹かれも
するが、同時に反発も拒絶も存するのである。

惹かれ合った者が、互いに反駁を繰り返しながらも、
一人ではありえなかった成長を共にしていく中で、
互いに似通ってくるというのは珍しいことではない。
美女と野獣が、長い年月をかけて、似たもの夫婦になることも
不思議ではないのである。

男女を問わず、より優れたDNAを求めて彷徨う人も
多いであろう。それ自体は罪ではないと思うのだが、
せっかく人間に生まれたのだから、できれば野獣が美女に
惹かれ、美女もまた野獣に惹かれ、共に成長しながら
似たもの同士となっていくことが望ましい。

多くの卵を産み、多くの種をばら撒いてという、
数を撃てば当るような生き方は、マンボウにでも
任せておけばよいのである。