世のため、人のため。
それが自分のためであることを知る人は、
自ら生きる意志を固める。
世間のせい、人のせい。
影はそれ自体が勝手に動くことはないことを知らず、
自らを省みることが出来ない。
世のため人のために、自分がどれほど苦労し、悩み、
貢献しているかを口にする人は、
まず信用しない方が良い。
それが自分のためであることを知ってか知らずか、
いずれにせよ、世間のせい、人のせいと考えて、
影に囚われることに転じてしまうことがままある。
「為に」であろうと、「所為」であろうと、
主体は生きる本人である。
自分がしたことと同じくらいの、
自分が人にしてもらったことは忘れている。
世のために頑張った分、周りも自分のために頑張って
くれていることに気がつかない。
人に心から感謝する心があるとき、
自身も誰かに感謝されていることを知る。
人のために祈るとき、自分のために祈ってくれている
人の存在を感じるのである。
主体の自身が動けば、影も動く。
影に翻弄され、影の動きに一喜一憂したところで詮がない。
影を動かしているのは、他ならぬ本人なのである。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/51/fc/6c9076c5ad773bc020d5d0432060b0f5.jpg)
それが自分のためであることを知る人は、
自ら生きる意志を固める。
世間のせい、人のせい。
影はそれ自体が勝手に動くことはないことを知らず、
自らを省みることが出来ない。
世のため人のために、自分がどれほど苦労し、悩み、
貢献しているかを口にする人は、
まず信用しない方が良い。
それが自分のためであることを知ってか知らずか、
いずれにせよ、世間のせい、人のせいと考えて、
影に囚われることに転じてしまうことがままある。
「為に」であろうと、「所為」であろうと、
主体は生きる本人である。
自分がしたことと同じくらいの、
自分が人にしてもらったことは忘れている。
世のために頑張った分、周りも自分のために頑張って
くれていることに気がつかない。
人に心から感謝する心があるとき、
自身も誰かに感謝されていることを知る。
人のために祈るとき、自分のために祈ってくれている
人の存在を感じるのである。
主体の自身が動けば、影も動く。
影に翻弄され、影の動きに一喜一憂したところで詮がない。
影を動かしているのは、他ならぬ本人なのである。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/51/fc/6c9076c5ad773bc020d5d0432060b0f5.jpg)
影も含めて己なのですね。
当たり前の事のようでいて、
ついつい忘れがちなようです。
特に僕の場合。(苦笑)
戒めさせていただきます。^^)
陽射しの中を生きている時に影は存在します。
どう生きるかで、影もそれに従って動いて行くんですね。。