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東福門院 和子

2011-09-16 06:30:37 | 歴史
東福門院、徳川和子(1607-1678、まさこ)は徳川二代将軍秀忠と江与との第五女ですが、入内して百八代後水尾天皇の中宮となりました。公武融和のための初の武家出身の国母でした。嫁して天皇との間に七人の子供をもうけ、長女は百九代の明正天皇(めいしょう天皇、女帝)になりました。母の江与(江)は、秀忠との間に二男五女をもうけました。長女の千姫は大姫と呼ばれ豊臣秀頼に嫁ぎましたが、豊臣氏滅亡の折、戦火の中を助けられ、江戸城に戻りました。五女の和子(まさこ)は、江与にとっては珍しい難産の末、ようやく誕生したということです。生まれると同時にえもいえぬ香りを漂わせ、やがて江戸の街も馥郁たる香りに包まれたという話もあります。和子は長女の大姫(千姫)と区別するために乙姫と呼ばれましたが、後に駿府の家康公より和子(まさこ)の名を賜ったそうです。既に家康には朝廷に入内させる腹積りがあり、和子は将来入内することを前提にして大切に育てられました。僅か14歳で入内した和子は、前述の通り後水尾天皇との間に二男五女をもうけました。つまり母親の江与と同じく多くの御子に恵まれた事になります。しかし二人の親王は早世し、長女の興子(おきこ)が後水尾天皇を継ぎ第百九代の女帝、明正天皇になりました。奈良時代の元明女帝から明(めい)の字をいただき、また同じく元正女帝から正(しょう)の字をいただいた大変由緒あるお名前でした。ここに徳川秀忠と江与は天皇の外祖父母ということになりました。その後、紫衣事件の件で憤慨された後水尾天皇は譲位して上皇となり、和子も後水尾上皇より「東福門院」の御名を賜りました。上皇は「東より福来る、という意味じゃ」と仰せられたそうです。以後、東福門院は御所に住まわれましたが、朝廷と武家、関東と京では諸事に亘って様式が異なり、御意に沿わないことが数多あったにもかかわらず、明るく穏やかなご性格をもって万事に対処されたということです。実家の徳川将軍家の勢威が非常に高い時期でもあり、陰に陽に和子中宮への援助も大きかった事でしょう。かくして69歳の天寿を全うされました。
余談ながら、1634年、東福門院は徳川家光将軍に随行して参内した保科正之公(會津藩の鼻祖)に対面しています。二人とも自分の兄弟でしたが、保科正之公とは初対面でした。この時、既に父母の秀忠と江与は薨去していましたが、自分が知らない妾腹の弟(正之)がいたことに驚愕したということです。そして、秀忠公が江与には正之公のことをあからさまに知らせていなかった事を知り「母上はお幸せであった」と述懐したそうです。東福門院は、後に正室を失った正之公に、自分に仕えていた女官を継室として紹介しております。

   宮尾登美子 「東福門院 和子の涙」 講談社
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