山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

美濃・紀伊国探訪の旅を終えて

2015-12-17 05:44:39 | くるま旅くらしの話

 晩秋の旅から戻って早くも10日が過ぎようとしています。雑事というのは果てもなく続くようで、そのペースに流されていると、もの書きも忘れてしまいそうです。まだ旅の締めくくりをしていないのが気になり、今日はどうしても書いておこうと思い立った次第です。

 まずあれこれ考えた結果、旅のタイトルを「美濃・紀伊国探訪の旅」と書きかえることにしました。「南岐阜と紀州」という呼び方は、自分の気持ちに合っていなくて、旅の間も何だかしっくりこなかったのでした。南岐阜というのは現代の呼び方であり、紀州というのは江戸辺りに使われた呼び方で、この組み合わせにはズレがあります。ここはやはり大宝律令の昔に戻って、令制国の呼び名が相応しいと思いました。南岐阜の中身は美濃国であり、紀州の中身は紀伊国となるわけです。日本国を日本国たらしめたのは、現在の法律ではなく、やはり古代の大宝律令が始まりであり、その治世区分としての令制国は、今なお色濃く残っており、自分などは今のような都道府県などよりも五畿七道をベースとする昔の令制国の方がずっと日本国らしいと思っているのです。

 というわけで、旅を振り返った時、今回自分たちは、美濃と紀伊の国を中心にめぐって来たのだと、改めて言い換えることにしました。ま、どうでもいいことなのかも知れません。

 

さて、その振り返りですが、まずは前段の美濃国巡りの所感です。これはもう何といっても、自分の予てからのあこがれというか、江戸時代きっての指導者・思想家というか、尊敬してやまない佐藤一斎先生の故郷である旧岩村藩のあった恵那市の岩村城跡とその城下町の名残りを訪ねることでした。行く前まで、そこがどのような場所なのか、全く未知の世界でした。一斎先生は藩の重役の子として江戸に生まれ、江戸に育ったということですから、もしかしたら岩村の地は第二の故郷といったところなのかもしれません。

岩村城は日本三大山城の一つといわれるほどに厳峻な石垣を巡らした城郭の跡が残っていました。さほど規模の大きな城とは思えませんでしたが、戦国時代の拠点としては重要な場所だったのではないかと思いました。車での移動でしたので、城と城下町とのつながりが良く解らず、地理的にかけ離れた印象があり、これは簡単に通り過ごしてしまうというくるま旅の欠陥なのかもしれません。今度訪ねる時は、城下町から城跡まで歩いて見ようと思っています。

国の重伝建指定の岩村の城下町は、巧みに水路を巡らした町屋が続いていましたが、先人の町づくりの優れた技術を垣間見ることが出来ました。町の中には至る所に一斎先生のことばを書いた札が幾つも掲出されていましたが、さて、これらのことばは現代人にどのような気持ちで受け止められているのかと、ちょっぴり気になりました。

美濃国では、この他に美濃市の美濃町エリア、郡上市の郡上八幡地区という二つの重伝建地区を訪ねましたが、それなりに日本の昔が残っており、存分に町歩きが出来て満足しています。このほか、予定していた岐阜城へ登ることが出来なかったのが心残りですが、これは次の機会の楽しみというものです。

 

次に、今回のメイン目的の紀伊国の熊野詣の跡を訪ねるということについてですが、平安時代の昔から貴顕の人々を初め一般大衆までもの多くが、何故、かくも厳しい熊野路を辿ったのか? という疑問の解に近づくのが真の目的でした。

この疑問を解くためには、二つの条件を満たす必要があります。その一つはその時代の人々の生きざまを深く思うこと、すなわち古代から近代までの歴史の変遷をしっかり辿ることであり、もう一つはその厳しい旅をしっかり追体験することだと思います。ということは解っているのですが、実際のところ、この二つの条件を満たす能力は元々備わっていないので、まあ、かなりいい加減な理解にしか至らないのだと思いますが、それなりに一応の結論めいたものを得て戻ってきた感じがしています。

それを一言でいうと、「旅がしたかったから」となるのではないかと結論しました。あまりにもラフないい方だと承知していますが、旅の本質というのは「非日常の世界の中に身を置き、己自身に気づくこと」と考えると、どうしてもそのような結論に至るのです。

熊野詣が始まった平安時代の頃は、治世の中核に居た天皇を初めとする貴族階級の人たちにとっては、穏やかならぬ心地のする毎日が続いていたのではないかと思われます。それは今まで自分たちの指示命令に従って諾々と警護の役を担っていた武士と呼ばれる階層の人たちが、その武力をもって政治の主役に躍り出ようとしていた時代でもあったからです。既成権力の崩壊がじわじわと忍び寄るのを感ぜずにはいられなかった筈です。

そのような時代背景のもとでは、貴顕の人々は、幾つもの不安に取り巻かれた都での暮らしから離れ、極楽浄土への生まれ変わりを信じ、求めて、熊野の神々に願ったのかもしれません。熊野の厳しい山川を修行者のように難行苦行して歩きながら、旅路の先に待ちうけてくれている救いの光を求めて行ったのだと思います。

しかし、その旅の実態は神頼みなどではなく、自らに課した難行・苦行の修練を通しての自己発見だったのではないか。そう思えてなりません。一度の体験では満たされなかった人は、もう一度と願ったのかもしれません。しかし、後白河上皇のように30回を超える御幸となると、これはもう熊野詣はある種の形式であり、その本質は旅だったといえるような気がします。蟻の行列といわれるような御幸の姿は、神への請願というよりも、詣でに名を借りた一つの旅の形となっていたのではないか。そう思うのです。

その後にも時代を超えて延々と続いたこの旅の形は、一般大衆を飲み込み、伊勢参りと併せて、信仰に名を借りたこの国の旅の基本コースとして定着していったのではないか。そのように思えてなりません。四国八十八カ所巡礼の旅や西国三十三観音、或いは坂東三十三観音、秩父三十三観音巡り等の旅は、より宗教色の濃い旅だったと思いますが、熊野詣と伊勢参りはその歴史が古い分だけ、旅そのものを楽しむという、人々の願いを満たすものとなって行ったような気がします。

 

旅がしたい」という願望は、生き物の本能の様な気がします。動物というのは、文字通り「動く物」であり、動くことによって生命を躍動させ、新たな環境の中に己自身を適応させながら生きてゆく存在だと思うのです。動くことによって生命を躍動させるという行為が旅なのだと思います。これは人間にとっても本能の一つであり、それゆえに人は誰でも旅にあこがれるのではないかと思うのです。昨日とは違う今日の中に自分を置いて見つめることが旅の本質であり、そこに新しい自分を見つけたいと願うのが人間なのではないでしょうか。この本能を捨て去ることは出来ないと思います。旅の実現が叶わなくても、人は夢としてその願望を忘れることはない、そう思うのです。平安時代の熊野詣も、現代のツアーの旅も、くるま旅も、皆同じ旅の本質でつながっているのです。このことを改めて感じた美濃・紀伊国探訪の旅でした。

 

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