山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

‘15年 南岐阜・紀州の探訪の旅 レポート <第19回>

2015-12-02 01:34:12 | くるま旅くらしの話

【今日(12/02・水)の予定】 

勝央SA →(中国道・米子道)→ 米子IC →(R431他)→ 皆生温泉共同浴場 →(R431他)→ 知人宅 

 

【昨日(12/01・火)のレポート】

<行程>

 道の駅:明恵ふるさと館 →(県道他)→ 湯浅町重伝建地区他探訪 →(R42他)→ 藤白神社参拝

 →(R42)→ 海南IC →(阪和道・中国道)→ 勝央SA(泊) 走行275km

<レポート>

天気:晴れ時々曇り 

朝になった。昨夜寝床の中でいろいろ考えた結果、五体王子の一つの藤白王子を参拝のあとは、長駆足を伸ばして、鳥取県は米子市在住の知人宅を訪問することに決めた。もはや、当初の旅の予定とは全く違う思いつきの行動である。米子市は弓ヶ浜地区に住むAさんは、旅で知りあった大切な知人の一人である。否、一人ではなくご夫妻である。毎年夏の北海道の旅でお会いしているのだが、今年は自分たちが行けなかったので、お会いすることが出来なかった。それに、ご夫妻は北海道行を年齢のことなども考えて、今年で休みとすると聞いている。となると、来年は会うことが叶わなくなるので、思い切ってお邪魔することにした。その旨メールをすると、電話がかかって来てOKとのこと。それで、決断した次第。

まずは、朝食の後この道の駅の近くにある明恵上人生誕の場所を訪ねることにする。この道の駅には何度も来ているのだが、まだ一度もそこを訪ねたことが無かったのである。道の駅:明恵ふるさと館の明恵(=みょうえ)というのは、法華宗の中興の祖といわれる明恵上人の生誕地がこの地であることから名付けられている。明恵上人は、京都栂ノ尾にある高山寺に住まわれ、木の上に坐して悟りを開いたと言われている。この地には随所にその所縁の地が残されている。その生誕の地には、小さな碑があるだけだったが、発掘調査では、何度か上人を祀る建物などが建てられたらしい。改めて宗教の持つ力の凄さを知った。いい時間だった。

    

有田川町はミカンの一大産地である。有田川に沿って、平地も山もミカン畑で埋まっている。町中を行き交う軽トラの殆どがミカンを入れる箱を積んでいる。今はその最盛期。

    

明恵上人は、この金屋町に生を受け、9歳の時までこの地に育ったという。その屋敷跡の片隅に生誕の碑が建てられていた。

その後、昨日注文していたミカンを手に入れ、まずは重伝建地区のある湯浅町を訪ねる。ここは何回か来ているけど、熊野詣の時代には唯一の宿場町として栄えたとのこと。町の中には熊野古道の跡も残っている。今日は町中の散策は止め、いつも手に入れている金山寺味噌を、いつもの店で買い入れるのが主目的。太田久助という名のその店の金山寺味噌はただの味噌ではなく、いろいろな野菜類が入っていて、格別の味なのである。まずはこれを手に入れて、次に海南市の藤白神社に向かう。

藤白神社は、海南ICの近くにあった。車を留める場所がなく、やむなく少し広がりのある空き地に置いて、参拝した。藤白神社は境内の広い立派な佇まいだった。ここはその昔の五体王子の一つの藤白王子のあった場所である。往時がどのような景観だったのか、想像を膨らませても追いつかない感じがしたが、恐らく海の近くの崖近くの細道の際にあったのであろう。その昔の貴人たちはどんな思いでこの地で熊野の神を思ったのであろうか。

    

海南市の高速道路IC近くにある藤白神社。これで五体王子社の全てに参拝することができた。

その後は、もはや移動専念の時間。高速道に入り、ひたすら米子を目指す。しかし、どんなに急いでも今日の陽のある内に着くのは無理。無理をせずに今夜は高速道のSAにて泊ることにする。岡山県に入り、勝央SAという所で、早や16時半近くになってしまったので、ここに錨を下ろすことにした。

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