山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

筑波山登山の記(第19回)<筑波山は世にもつまらない山か?>

2014-02-27 09:40:52 | 筑波山登山の記

<第19回 登山日 2014年2月26日(水)>【筑波山は世にもつまらない山か?】

 前回18日に引き続き今月2回目の登山となった。前回は残雪に悩まされ、頼みの杖を無くしたりして、復路の下山は自力での歩きを諦めて、ケーブルカーを利用せざるを得ない羽目となったが、今回はそのようなことがないよう、アイゼンも用意してのチャレンジとなった。

前日は、明日は夜が明けた頃の登山開始にしようと、家を5時頃の出発と考えていたのだが、どうも熟睡が叶わず、浅い眠りのままに4時過ぎに目覚めてしまったので、ヘッドランプを使ってもいいからと、思い切って早めに行くことにし、4時半過ぎの出発となった。出がけの玄関先には、東の空に鋭い鎌の形の月と明けの明星が光り輝いていた。空気がピリッと締まって、この分だと今日はいい登山日和になるのではないかと思いながらの出発だった。

5時半前にいつもの駐車場に着いたが、駐車場は観梅用に有料化されており、しっかりと区切りのポールなどが立てられていた。無人なので、500円也の料金は支払えなかったが、帰りには支払うのを覚悟しての出発だった。まだ足元は暗くて、しばらくはヘッドランプの光を頼りの歩行となった。登山口の辺りから中間点の辺りまでは残雪は殆ど消えており、その分だけ解けた雪の水が大地をぬかるみにしていて、凍結とは異なった歩きにくい状態となっていた。それでも凍結して雪の上を歩くのとは大分違って、使う神経も少なくて済むのはありがたかった。

しかし、中間点を過ぎる辺りからは、残雪の量が少なくなっているとはいうものの、高度で次第に気温も下がるのか、凍結している箇所が多くなり、男女川源流の辺りまで来ると、前回と大して変わらない厳しい残雪状態となっていた。前回無くしてしまった杖を探そうとしたけど、登り道では、辿りついている杖の位置の見当がつかず、周辺を見てもどこにあるのか全く判らない状態だった。帰りにもう一度探すことにして、先ずは御幸ヶ原を目指す。

中間点辺りで、せっかく持参しているアイゼンを取り付けた方が良いと思ったのだが、何だか面倒になり、このままで行くことにして登り続ける。御幸ヶ原に出て、そのまま一気に男体山頂上へ。順番では今回は女体山なのだが、男体山にしたのは、次回以降3月に入ると観梅のため駐車場が使えなくなるので、別のコースに切り替えるつもりであり、そうなると女体山への登山が多くなる可能性が増えるからである。ま、毎回500円也を払えば、そのような考えは無用で済むのだけど、年金暮らしには、500円也は気にすべき額なのである。

男体山頂上で、先ずは登山証拠の写真を撮る。今日は天気が良さそうなので視界が開けているのかと思っていたのだが、下界はもとより直ぐ近くの女体山の山頂までもがボヤっと霞んでおり、霧がかかっているわけでもないのに、今日の眺望は全く期待外れだった。何だかこの天気は異常だなと思った。〔後で、この日はPM2.5なるものの飛散が異常なほど多くて、各地に注意報が出されたと知った〕

     

今日の筑波山・男体山御本殿。背景の青空は本物なのだが、少し先の方を俯瞰すると靄のようなもので視界は閉ざされていた。

     

男体山の山頂付近から見た女体山方向の景観。劣悪な墨絵のような景観は、今まであまり見たことのない景色だった。後で、中国から飛来のPM2.5とかいう奴の仕業と知った。不気味な悪魔の存在を感ぜずにはいられない。

一呼吸して、直ちに下山を開始する。杖の使い方が上手になったのか、いつもは15分ほどかかるのに、今日は御幸ヶ原迄10分で下りて来てしまった。ケーブルカーの頂上駅脇の休憩台の椅子に腰を下ろし、アイゼンを取り付ける。アイゼンは10本爪のものと4本爪のものとがあるけど、筑波山のこの程度の状況では4本爪で十分だろうと、それしか用意していない。取り付けた後は直ぐに下山を開始する。思った通り、アイゼンは4本爪で十分だった。登りではきつかった場所も問題なく足を運ぶことが出来た。但し、本格的な雪山では通用しないであろう。でも、もはやそのようなチャレンジは諦めているので心配は無用である。

下山を開始して、男女川の源流に近づいて、前回杖を失った箇所まで来て、慎重に下方を見渡し、下山道のどの方向に杖が滑って行ったのかを再確認した後、もう一度探しながら降りることにした。30mほど下って、この辺りかなと道脇を見ると、何と、あった!ではないか。登山道から3mほど脇の雪の中に、1週間前に我が手から離れて滑落した杖が、オーク色の肌を見せて、残雪に半ば埋まった状態で見つかったのである。直ちに駆け(?)寄って手に取る。間違い無し、ニスを二度塗りしたまだら模様の出来栄えの杖は、誰にでも作れるものではない。他の人ならもっときれいにつくり上げるに違いないけど、自分にはまだら模様の塗りあげレベルの技量しかない。何はともあれ、今まで心の奥底に淀んでいた残念感のようなものがいっぺんに消え去って、俄然元気が出たのだった。

そこから先は、杖の二刀流での下山開始となる。考えもしなかったのだが、杖の二刀流は、岩石の多い登山道の下山の場合は、大いに威力を発揮するものだと合点した。利き腕の右手に長めの杖、左に短い杖をもって、バランスを取りながらの下山は、今までにない快適な歩きとなって、いつもは1時間ほどかかる下山が今日は何と10分ほども短縮できたのだった。不思議な気分となった次第。

下山を終えて、駐車場に戻ったら、既に営業が開始されたらしく、交通整理のガードマンや、料金徴収のアルバイトらしき若者が待ち構えていた。車に行く前に料金を払おうとすると、歩きの人は支払わなくていいという。自分は確かに歩いて山を下りて来たのだが、車はここに置いてあるのに、いいのかなと思った。ま、そういってくれるのだから、余計なことは言わずにありがたく承っておこうと、そのまま車に戻って帰宅の途に就いたのだった。バイトの若者は勘違いをしたのではないかと思いながらも、駐車料金を取られずに助かったことはありがたい。杖は戻ったし、駐車料は無料で済んで、めでたしめでたしの今回の登山だった。

 

さて、ここで一つ筑波山について、この山の名誉のために一言いいたいことがある。先日、筑波山の登山ルートなどについてより詳しく知りたいと思い調べていたら、ネット上に筑波山の登山などのことについて書かれているブログの中に、「筑波山という世にもつまらない山を登ってきた」という見出しの記事があった。「超音速備忘録」というブログの中の記事のようだったけど、この超音速備忘録という意味がさっぱりわからない。超音速というからには、音を超えるほどの、つまりマッハ級のスピードというイメージは湧くけど、それが備忘録すなわちもの忘れ防止のメモなるものと、どういう関係にあるのかが判らない。直ぐに忘れてしまうので、ほんのちょっとメモしただけという様な内容なのだろうか。

ま、それは措くとして、そのブログ記事を読むと、というよりも見るといった方が正確かもしれないのは、文字よりも写真の方が前面に出ている記事だからである。自分のようなジジイとは違って作者はお若い方らしく、大きな写真のコメントには、何やら短絡文字らしきものが幾つか使われていて、例えば「ミスド」などというのは意味不明だったのだが、後でそれがミスタードーナッツとかいうファストフードの店と判ったりして、大分に感覚の違いを覚えた。すなわち、我はジジイなりなの再確認である。

写真を見ながらコメントを読み、本文らしき文章を読みながら思ったのは、これは気の毒な人・気の毒な記事だなということだった。しかし、気の毒といっても同情心が湧くような人物には思えず、恐らくご本人も気の毒だなどとは余計なお世話で、心外な話だと思われるに違いない。都会に住む人の、つかの間の思いつきの遊山が、同じ思いつきでやってきた人間の溢れかえる状況の中で、それにうんざりする思いが積もり積もって、ついには、開き直ってダダをこねて大声を上げたのが、「筑波山という世にもつまらない山を登って来た」というタイトルになったのではないかと思う。五月の連休の新緑シーズンに手軽に遊山を楽しもうとするからには、予めの覚悟のようなものが必要なのに、不用意に来てしまったという迂闊さを、筑波山という山に責任を被せようとする感じがして、やはりこのタイトルは不適切だなと思った。

筑波山をこよなく(それほどではなくても)愛し、大事に思っている人から見れば、このタイトルは明らかな冒涜であり、挑発的な罵詈雑言だと思う。何故なら筑波山という山そのものは、つまるとか、つまらないとかの存在などではあり得ず、そのようなコメントは全て人間の世俗の為せる業であるからである。つまる・つまらないは、皆人間どもが勝手にそう思い、しているだけの話に過ぎない。世にもつまらないというのは、筑波山そのものではなく、そこに群がりそこに一緒になってぶつくさ言っている人間世界の愚痴に過ぎないのだ。

ところで、このブログの内容はなかなか面白い。筑波山のことではなく、世俗のできごととして目を向ければ、取り上げられている写真とコメントは、興味深い部分がある。どうやらこの方は写真に関心が大でかなり力を入れられているようだ。カメラアングルにもそれなりの鋭さもある。このブログ記事だけでは判らないけど、写真に関しては何か面白い作品などを残しておられるような気がする。見てみたい気もするけど、深入りはしたくない気分もある。何しろ、「筑波山という世にもつまらない山」などという言い方を改めて貰わぬ限りは、このジジイの心は動かない。

ひょんなことから筑波山を冒涜する様な記事を見つけて、はじめは怒りを覚えたのだが、中を見るとタイトルの付け方が間違っているだけで、存外にまともな内容だったので安堵したのだが、今様のマスコミなどのなりふり構わぬ人寄せ見出しのようなものは、やめて貰いたいなと思った。筑波山がつまらないのではなく、そこに集まる人間どもの仕業の中に、つまらぬことどもが溢れているということを、より正確にタイトル化して欲しいものだと思った。

 

コメント
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