山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

時々「近況報告」:締切は約束に非ずか?

2021-12-06 15:26:24 | くるま旅くらしの話

  早や12月となってしまったが、11月は冊子作りとそのフォローに明け暮れた感がある。冊子というのは、62年前に卒業した高校の3年時のクラスの仲間による傘寿記念文集というものである。このような変な企画を打ち出す人たちがいるというのは普通ではあまり考えられない話ではないかと思う。よほどにまとまった仲の良い級友たちの集まりかといえば、そうでもないのである。卒業時に52名いた在籍者は、亡くなったり不明になったりして、現在の住所を確認できる者は32名に過ぎない。

 このクラスは卒業後30年経ったときにクラスの担任だった恩師が送って下さった卒業記念文集の復刻版に感銘して、その後毎年の新年会に集まる者が増えて、恩師が亡くなられた後も毎年15名以上の参加を保って新年の集まりを継続して来たのである。この間誕生の節目(還暦、古希など)に有志の投稿による記念文集を作成したりしていたのだが、今回は、齢八十となり多分これが最後になるだろうという思いで傘寿記念文集を作ることになったのであった。

 不肖最劣等生であったことを自認する自分に、その作成を担当する幹事の役が巡って来た次第なのである。自分はくるま旅を続けていて旅が終るとその内容を冊子にまとめたりして冊子作りには割と慣れていたので、外注すると費用がかかるので手づくりで作ろうと考え、11月はその作業に大童だったという次第。

 この企画は約2年前に発案されて、それ以降担当幹事の自分は、とにかくどうにかして原稿を出してもらおうと、無い頭をひねって、5回も提出要請のハガキを出したのだった。この間世の中はコロナ感染の渦の中にあり、原稿を書く時間などは溢れるほどにあったと思うのだが、クラスメンバーの反応はさっぱりで、その都度頼んだ締切迄に届いた原稿は、到底一冊の文集を作るには遠く及ばない状況だった。もどかしい思いに駆られながら、最後通告としての締め切りを9月末としてハガキを出したのだった。

 それまでに10篇程の原稿は集まっていたので、最悪の結果であっても、とにかく薄っぺらでもいいから作ってケリをつけようと思っていたのだった。9月の締め切りが近付いた半月前頃から何編かの新たな原稿が送られて来て、やっぱり気にはしてくれていたのだと、妙に嬉しくなった。そして締め切り日までには20篇を越す原稿が寄せられたのだった。それどころか締切を過ぎた後から送ってくれる人もいて、最終的には何と25人ものメンバーが文集に参加してくれたのだった。32名中25名とは8割に近い高率であり、卒業時の52名を分母としても5割近い参加率なのだった。

先ずはめでたし、めでたしということであろう。反応なしだった7名の人たちにはただ心身の健康を祈るだけである。

 この2年間の殆どがコロナのパンダミックにまみれた絶大なる閉塞感のある日々だったが、自分一人は閉塞感からは遠く解放されて62年という時間の移ろいの中でクラスの仲間の人たちがどんな時間を過ごしたのかを独り空想して実に楽しい時間だった。

 そして、現実の我に返った時、強く思ったのは、締切とか約束とかいう時限を切っての日時に対する人々の考えの反応の有り様のことだった。これは明らかにその人の性格や行動のあり方と深くかかわっているなと思った。そしてしみじみ思ったのは、「今日できることを明日に延ばす」という考えの人が多いということだった。ま、世の中というのは、そのような考えの人たちを中心にゆるりと廻っているのだなと思った。そして自分はその中に巻き込まれないように心掛けようと思っ

た。

     

      傘寿記念文集「案山子」

 

 

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